前回は「「覚慶奉戴」に賭けた和田惟政〜「将軍家支援」拒否した朝倉と六角・将軍義輝を「攻め殺した」極大事件・近畿で暗躍した松永霜台〜」の話でした。
「将軍奉戴」引き受けた「勇敢で剛毅な」信長:峻拒した朝倉家

ルイス・フロイスは、将軍義輝殺害後、義輝の弟・覚慶の挙動を詳細に記述しています。
Froisことに彼は越前国主
朝倉殿(義景)、・・・



近江国主六角殿(義賢)の
許で、これをなした・・・



そのような難事をあえて
担当するつもりはないと述べた・・・
ところが、甲賀近隣の有力大名であった朝倉・六角は、覚慶保護を拒絶しました。
一般的には「朝倉家に一時滞在」した説が有力な覚慶。


「朝倉家に寄寓していた」と言われる明智光秀と将軍家、そして光秀と信長の縁が出る説が有力です。
ところが、フロイスは、朝倉家は「覚慶保護を峻拒した」ことを明記しています。
これが事実であれば、光秀を取り巻く歴史に関しては、再考が必要になります。



そこで和田殿は
信長の許に赴いた・・・



彼は勇敢で剛毅な人物で
あったので・・・



直ちにこの企画を引き受け、
難事を克服し排除して・・・



復位のことをはなはだ
容易にした・・・
ここで信長は、「将軍奉戴」という「企画」を引き受けました。
ここで、フロイスの記述の「企画」という言葉は興味深いです。
「将軍奉戴」という、おそらく当時「最高の栄誉」に付随した「多大な困難」。
「多大な困難」とは、端的に言えば、当時大勢力であった三好・松永と正面切って戦うことでした。





「将軍奉戴」は
我が朝倉家の大名誉・・・



だが、一向一揆が北東におり、
京に乗り込む余地は、ない・・・
越前王・朝倉家は、当時50万石ほどの領土を有し、富裕でしたが、一向一揆と死闘を続けていました。
この事から、「山城に向かい、三好・松永と一戦交える」のは困難だったのが実情でした。





将軍奉戴か・・・
困難も多いが、やって見せよう!
それに対して、信長は「あっさり引き受けた」ように、フロイスは記載しています。
このプロセスは、信長と義昭の性格の違いが最大の理由と考えます。
「まずは守護・守護代」だった覚慶の発想:「格下」の織田家


当時、濃尾100万石の大勢力となっていた織田家。
その一方で、近畿圏から考えると「少し遠い位置」でした。
越前・朝倉、南近江・六角と比較すると「少し遠い」上に「家格が少し下」だった織田家。
| 守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
| 守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家 |
| 守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家 |
| 国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
将来「足利将軍」となることを期待していた覚慶にとって、まずは頼るべきは「守護」でした。
守護:各国の軍事指揮官・行政官。地頭などを管轄して国を治め、強い軍事力を有する
地頭:領土と民衆を管理する地域の行政官。徴税権・警察権(軍事権)を有する
源頼朝によって、1185年に設立された守護・地頭の職。
室町幕府においても守護の職は存続し、「諸国の長官」であり、権威は極めて強い存在でした。





まずは、守護である
六角を頼りたい・・・



六角がダメなら、
守護代の朝倉か・・・
「将軍家の秩序」を重んじなければならない立場の覚慶(義昭)が、こう考えたのは当然でした。
そして、六角・朝倉に拒否された覚慶にとって、近畿周辺には「強力な守護・守護代」不在でした。
その結果、「守護代の下」であり、将軍家が直接相手にする立場としては「圏外」だった織田家。



守護代ですらない
織田家か・・・
おそらく、覚慶は、織田家に対して、このように「大した家柄ではない」と思っていたでしょう。



公方様(足利義昭)は、彼のところに
至り、両者はその準備をした・・・



都に赴くために軍勢は
近江国を通過する必要があった・・・
信長が、新たな本拠地・美濃から山城に乗り込むためには、近江を通る必要がありました。



六角殿は、一つには信長に
対する恐怖から・・・



またこの企画を、自ら先に拒絶した
ことを恥じていたので・・・



その通過を拒もうと
考えた・・・





守護代ですらない織田が、
守護である六角の領土を通る、だと・・・



しかも、私がかつて断った
覚慶を奉じている、だと・・・



織田を通過させる
わけにはいかぬわ!
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 六角義賢(承禎) | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
1521年生まれであり武田信玄と同年齢だった、大ベテランの守護・六角義賢。



守護代の下であり、
若造の信長・・・
格式も年齢も、信長の「遥かに格上」だった六角義賢は、強い決意を固めました。
守護代ですらない小僧・織田信長に立ちはだかる決意、を。

