前回は「「追放人たちの避難所」だった「圧倒的自治都市」堺〜30代前半で「戦の達人」に到達した信長・難なく稲葉山城攻略〜」の話でした。
将軍義輝を「攻め殺した」極大事件:和田を頼った覚慶

Froisところが、美濃国主は
非常に苦労して・・・



騎馬で従った僅かな貴人とともに脱出し、
都に逃れ、同所も安全でないと見て・・・



日本の全ての追放人にとって
避難所である堺に赴いた・・・
ルイス・フロイスは、当時の堺を「日本の全ての追放人にとって避難所」と表現しました。


言わば、「解放区」であり、当時の日本でただ一つの「異形の都市」であった堺。
当時の堺は、世界中の都市の中でも際立った特質を持つ都市であったとも言えそうです。
1567年、信長は斎藤龍興を倒し、美濃を手にいれ、一気に濃尾100万石の大大名となりました。





殺された公方様(足利義輝)には、
僧侶で・・・



大和国奈良の一寺(興福寺一乗院)の
長老である弟(覚慶)があった・・・
ここで、フロイスの視点は、京・山城における大異変の話に飛びました。
緻密な描写をするフロイスですが、将軍義輝が殺された時期を明記していないのが不思議です。



三好、松永めが・・・
まさか・・・
信長が美濃を手に入れた1567年の二年前の1565年、将軍義輝は、三好一党に攻め込まれました。
二条御所にいた将軍義輝を包囲の上、攻撃した三好一党に対し、



こうなったら、斬り
死にするまで!
将軍義輝は自ら刀を取り、雑兵と刃を合わせた、と伝わっています。
日本の歴史において、「将軍暗殺」はいくつかの例がありますが、最も悲劇的な投資でした。
「暗殺」というよりも、白昼に堂々と「攻め殺した」点で極めて異質な事件でした。



兄には嗣子がなかったので、
その職位を継承する権利は彼に属した・・・



しかし、彼は(松永)霜台(久秀)に
殺されるかも知れぬことを案じ・・・



同寺院から脱出して
甲賀の和田(惟政)の家に赴き・・・



彼に日本の諸国主の許で事態を
促進するように懇請した・・・
この辺りは、将軍となる足利義昭(覚慶)の動きとして、有名な話です。
将軍義輝の殺害に「松永も加わった」のは明らかですが、それに霜台(久秀)が加わっていたかどうか。
この辺りは諸説ありますが、フロイスはこれに触れていません。
「覚慶奉戴」に賭けた和田惟政:「将軍家支援」拒否した朝倉と六角


ここで登場する松永久秀を、フロイスは「霜台(そうたい)」と呼んでいるのが特徴的です。
一般的には、官位から「松永弾正」と呼称することが多い、松永久秀。
この「霜台」というのは、「弾正台」の唐名です。
当時の日本において、「弾正=霜台」と呼んでいたのか、フロイスたちの認識かは不明です。



そして、彼(和田)に、自分が将軍職に
就任すれば、彼を大侯に任ずると約束した・・・



和田殿は、日本で高く評価される名誉を
厳守することからも、また約束に対する期待からも・・・



および彼が伴った家臣や貴人を扶養するために、
自らの采邑を売却した・・・
フロイスと密な関係となる和田惟政に対して、フロイスの筆は緻密です。
覚慶の「将来は大諸侯に」という言葉を信じて、和田惟政は、土を売却して大勝負に出ました。



四ヵ年に渡り和田殿は
彼を同家で、この支出によって扶養し・・・



この全期間、つねに諸君侯の館で
彼を将軍職に任命させるよう・・・



駆り立てるべく
諸侯に赴いた・・・
和田惟政が、周辺諸国に赴き、「覚慶将軍就任」の協力を要請したことが描写されています。
忍者発祥の地として有名な甲賀は、伊賀と並び、当時の伊賀国にありました。


山城国の南東に位置し、山深い国である伊賀は、「秘境の地」であったと思われます。



ことに彼は越前国主
朝倉殿(義景)・・・



近江国主六角殿(義賢)の
許で、これをなした・・・
当時の近畿圏で「三好と距離を一定の置く」立場で、強力な力を持っていた大名を選んだ和田。
和田の視点から見れば、朝倉・六角が「覚慶奉戴」の最有力候補となりました。



彼らはこの使命を引き受けることは
大いに名誉になり・・・



名声をもたらし得ると認めはしたが、
それから生ずべき冗費、危険、困難が・・・



多大であることを察して、
これを拒絶し・・・



そのような難事をあえて
担当するつもりはないと述べた・・・
和田から頼られた、朝倉・六角は、「覚慶支援を断った」と明記されています。
一般的には、「覚慶は、一時は朝倉義景の元にいた」説が有力です。
ところが、当時の風説をよく知り、情報力が際立っていたフロイスは、これを否定しました。
覚慶を「四年間に渡り、和田館で保護した」と記載したフロイス。
そして、いよいよ、勃興勢力であった織田家が登場します。

