前回は「非常職・大老設置を決意した将軍家定〜小さい頃から病弱だった徳川家定・徳川家慶の懸念・将軍になりかけた一橋慶喜〜」の話でした。
外圧に耐えかねた病弱な将軍家定
問題山積で、諸外国との交渉が次々出てきて、混乱する将軍家定。
小さな頃から、身体が弱い体質だった家定は、将軍就任後に体調がさらに悪化しました。
もう、どうにも
ならない・・・
当時の幕閣には、それなりに優れた人物が補佐していましたが、リーダーシップに欠けていました。
さらに大勢の外国からの使節が日本にやってきて、「交渉という名の圧力」を掛けてきました。
Hello!
Japanの皆さん!
条約結ばなかったら、
Edoを砲撃しますよ!
1853年から54年のペリーに続き、1858年には、
Hello!
Japanの皆さん!
我がUnited Statesと新たな条約を
早く締結しろ!
当時「西へ西へ向かっていた」米国は太平洋の向こうの日本に強く接触してきました。
この時、本来、将軍自身が強きリーダーシップを発揮するのが理想ですが、
私は身体が弱く、
無理だ・・・
身体の調子が極めて悪くなっていた家定には「無理」であることは、家定自身が分かっていました。
総理大臣格・老中を上回る非常職「大老」
ここで、将軍家定は一気に飛躍しました。
大老を任命し、
この非常時を乗り切る!
決断する将軍家定。
そして、「大老設置」を決定できるのは「将軍のみ」でした。
といっても、大老は非常職です。
そして、「簡単に任命するべきではないポジション」です。
最高権力者はもちろん将軍ですが、将軍は「後方で鎮座している存在」とも言えます。
事実上、老中が総理大臣のような立場であり、老中が「政治上の意思決定者」でした。
その老中の上に位置する非常職「大老」。
大老に強き
リーダーシップを持つ人物を!
まるで「強き大老」を救世主のように待つ姿勢の将軍家定。
大老という特別職の重み:井伊か酒井か土井か堀田か
「強きリーダーシップを持った優れた大老」を待ち侘びる将軍家定。
ところが、「強きリーダーシップを持った優れた大老」は待っていても登場してくれません。
私が「強きリーダーシップを持った優れた大老」を
任命しなければ・・・
誰が大老に
相応しいだろうか・・・
将軍家定が考えている時期までに、10名が任命されています。
250年近い徳川幕府の歴史の中で、家定の前に12名の将軍。
対して、大老は10名しかいないのです。
つまり、代々の大老の人数「代々の将軍の人数よりも少ない」状況でした。
それほど、希少な存在である「大老」。
大老となる資格があるのは、徳川譜代であることが前提です。
家名 | 人数(名) |
井伊 | 5 |
酒井 | 3 |
土井 | 1 |
堀田 | 1 |
それまでには、井伊・酒井・土井・堀田の家から大老が出ています。
十三代将軍家定の代までに、井伊家は「大老十人中五人」で半数を占めます。
文武両道で、徳川家康の信任が非常に篤かった初代藩主 井伊直政の強い影響を感じます。
しかも、直近は4代続けて井伊家です。
徳川四天王と言われる酒井忠次・本多忠勝・井伊直政・榊原康政の中で最年少だった井伊直政。
名前 | 生年 |
徳川家康 | 1542年 |
酒井忠次 | 1527年 |
本多忠勝 | 1548年 |
榊原康政 | 1548年 |
井伊直政 | 1561年 |
文武に優れた井伊直政を非常に重宝したのが、初代将軍の徳川家康でした。
「徳川譜代中の譜代」とも言える四天王からは、本多・榊原からは大老を輩出していません。
井伊の5名と酒井の3名が突出していて、それまでの10名のうち8名の大老を井伊・酒井が出しました。
つまり「大老の80%」を「四天王出身の井伊と酒井」が占めたのです。
大老の前任者は、井伊直亮=井伊直弼の兄・前彦根藩主でした。
大老は井伊か、
酒井か・・・・・
はたまた、
他に適任者がいるのか・・・・・・
悩みに悩む、将軍家定でした。