非常職・大老設置を決意した将軍家定〜小さい頃から病弱だった徳川家定・徳川家慶の懸念・将軍になりかけた一橋慶喜〜|井伊直弼7・出身・人物像・エピソード

前回は「木に埋もれた人生から一気に躍り出た井伊直弼〜ペリー来航の大激震と日米和親条約締結・困惑する幕府・大揉めの将軍継嗣問題・一橋慶喜が大嫌いな将軍家定〜」の話でした。

井伊直弼(Wikipedia)
目次

小さい頃から病弱だった徳川家定:徳川家慶の懸念

徳川幕府第十三代将軍 徳川家定(Wikipedia)

1824年生まれの徳川家定は、第十二代将軍であった徳川家慶の後継者です。

第十二代将軍 徳川家慶(Wikipedia)

私は
子沢山なのだ!

子沢山だった徳川家慶は、なんと「14男13女」を設けました。

つまり「27人も子どもがいる」という大家族でしたが、

我が代々将軍家は、
子どもは多いに越したことはない!

代々世襲の徳川幕府将軍は、「後継者不在」となると大変なことになります。

新建築紀行
第八代将軍 徳川吉宗(Wikipedia)

実は「後継者不在の危機」を感じたのは、家慶の四代前の第八代将軍徳川吉宗の時代でした。

私は、
御三家の紀州徳川出身だ!

徳川時代に、諸侯の中で「別格」扱いであった尾張・紀伊・水戸の徳川御三家。

徳川御三家

紀伊徳川家:55万石

尾張徳川家:62万石

水戸徳川家:35万石

石高のみでは、加賀102万石、薩摩77万石より劣るものの全国有数の大大名であった御三家。

これら徳川御三家は、江戸城などにおける待遇・扱いが「別格」でした。

そして、この「別格」の御三家は「将軍を出すことが出来る」数少ない家柄でした。

将軍吉宗は、

今回は、御三家である
我が紀伊から私がきたが・・・

もし、御三家に徳川将軍後継者が
いなかったら、大問題だ!

と考え、御三家に準じる家格として「将軍を出すことが出来る」御三卿を新設しました。

徳川御三卿

田安徳川家(田安家):10万石

一橋徳川家(一橋家):10万石

清水徳川家(清水家):10万石

御三卿の石高は、仲良く「みんな10万石」で合わせました。

これで、徳川宗家以外に
御三家・御三卿合わせて六の家がある・・・

六もの家があれば、
「後継者不在」となる可能性はないだろう・・・

享保の改革で有名な徳川吉宗は、徳川宗家のためには最も大事な仕事の一つ「後継者不在解消」を実施しました。

「14男13女」の子どもを抱えた徳川家慶でしたが、

大勢の我が子が
次々と・・・

なにかの身体的問題があったのか(詳細は不明)、成人まで成長したのは家定のみでした。

さらに家定は小さい頃から病弱で、

う〜む・・・
これほど身体が弱いのでは・・・

これでは、
将軍職は難しいのではないか・・・

他の人物に
将軍になってもらったほうが良いのか・・・

将軍になりかけた一橋慶喜

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徳川幕府第十五代将軍 徳川慶喜(国立国会図書館)

我が子 家定は
病弱すぎるから、誰か他に良い後継者はいるか・・・

ここで、小さい頃から身体頑健で英米の誉が高かった一橋慶喜。

僕は健康で、
頭も良いです!

将軍には
うってつけです!

一橋慶喜は、もともと御三家の水戸出身で、
今は御三卿の一橋家・・・

将軍は
やはり家定ではなく、慶喜が良いのか・・・

逡巡する家慶でしたが、最後には「我が子が可愛かった」のでしょう。

家定は健康に多少問題があるが、
幕閣が補佐すれば良かろう!

我が後継者は
家定!

健康には少し自信ないですが、
頑張ります!

こうして、第十三代将軍に内定した家定。

なんだ・・・
将軍になれると思ったのに・・・

第十三代将軍に「なりかけた」慶喜は、二代後の第十五代将軍=最後の将軍となりました、

そして、家慶死去の後に、

私が第十三代将軍
徳川家定です・・・

家定は1853年、現代の19歳の時に正式に第十三代将軍となったのでした。

少し病弱でしたが、若々しい青年将軍が誕生しました。

非常職・大老設置を決意した将軍家定

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米提督 Matthew Calbraith Perry(Wikipedia)

Hello!
Japanの皆さん!

家定が将軍に就任した1853年には、ペリーがやってきました。

我がUnited Statesと
条約結びましょう!

黒船来航の19日後に将軍となった家定。

メリケン(米国)と
条約か・・・

ここは、「準備不足」ということにして
棚上げにしましょう!

そして、徳川幕府はペリー提督に対しては「先延ばし作戦」で臨みました。

「またの機会」と
いうことで・・・

分かりました!
「またの機会」で来年また来ます!

メリケンは遠いから、
流石に来年は来ないかもだろう・・・

と思った幕閣が甘く、翌1854年には、

Hello!
Japanの皆さん!

約束通り、
「また」来ましたよ!

本当に
来た・・・

条約結ばなかったら、
Edoを砲撃しますよ!

こうして、日米和親条約を締結させられた徳川幕府。

そして、リーダーシップ不在に悩む、第十三代将軍 徳川 家定。

強いリーダーシップを持つ人間に、
補佐して欲しい・・・・・

Townsend Harris(Wikipedia)

悩んでいるところに、さらに1858年には米国からハリスがやってきます。

Hello!
Japanの皆さん!

ハリスは、日米和親条約に続く条約を迫ってきて、事態が急展開します。

また
変な外国人が出てきた・・・・・

今の徳川幕府には、
手に負えぬ・・・・・

外交問題がさらに増えました。

老中首座 堀田 正睦(歴史道vol.6 朝日新聞出版)

その中、条約の責任者であった老中 堀田正睦は朝廷との折衝に失敗します。

堀田では
ダメだ・・・

この難局を
乗り切るタマではない・・・・・

悩む将軍家定。

時は1858年で、明治維新まで、あと残すところ9年でした。

徳川幕府の屋台骨がグラグラ揺らいでいることを肌で実感していた将軍家定。

英国公使 Sir Rutherford Alcock(Wikipedia)

米国だけでも相手をするのが大変なのに、英国・仏国と急に大勢やってきました。

事態は収集どころか、もはや何がなんだか「訳がわからない状況」になります。

健康に問題があり、将軍就任後は体調が悪化していた家定は、悩みに悩みます。

もう、どうにも
ならない・・・

ここは、
大老を任命するしかない・・・

家定は、非常職の大老設置を決意します。

次回は上記リンクです。

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