前回は「大老という特別職の重み〜井伊か酒井か土井か堀田か・外圧に耐えかねた病弱な将軍家定・総理大臣格・老中を上回る非常職「大老」〜」の話でした。
心身虚弱の中の家定の一大決断:数多くの外国からの使者と条約交渉
将軍継嗣問題・海外との折衝と難題ばかり続く中、非常職・大老設置を決意した将軍家定。
大老を設置して、
この国難を乗り切る!
Hello!
Japanの皆さん!
Hello!
Japanの皆さん!
現代の感覚よりも「時間の流れが遅かった」と思われる江戸時代。
1553年に続いて翌年の1554年にペリーがやってきたと思ったら、1558年にはハリスが米国から来ました。
もともと身体が弱く、「将軍になるには不向きだった」とも考えられる家定。
誰か優れた人間を
大老に・・・
大老設置を決断しました。
非常に評価が低い家定ですが、この「大老設置」を決断した点はリーダーシップがあったでしょう。
最高権力者になった井伊直弼
様々な候補を考えた、将軍家定。
大老となる資格があるのは、徳川譜代であることが前提です。
家名 | 人数(名) |
井伊 | 5 |
酒井 | 3 |
土井 | 1 |
堀田 | 1 |
十三代将軍家定の代までに、井伊家は「大老十人中五人」で半分を占めます。
井伊
しかない・・・・・
「それまでの大老の半数」を占めた井伊に期待した家定。
将軍家定は、彦根藩主 井伊直弼に白羽の矢を打ちます。
1858年、将軍家定は、井伊直弼を非常に大きな権限を持つ「非常時の役職」である大老に任命します。
井伊直弼よ!
大老を任せる!
私が
大老に!
ははっ!
お任せを!
彦根藩主になっただけでも、大きな驚きだった直弼。
彦根藩の運営に全力で臨んで8年。
そして、m着々と成果を上げつつあったところでした。
藩主となって8年で時代は大きく変化し、猛烈なうねりの中にありました。
私が
徳川を支えるのだ!
幕末の混迷の中に飛び込んだ直弼
西郷隆盛・高杉晋作らが時代の表舞台に登場し、混迷の時代を迎えつつありました。
そして将軍家定は、井伊直弼に全てを託したのでした。
彦根藩の
井伊直弼よ・・・
我が徳川を
救って欲しい・・・
あたかも神君徳川家康公を、補佐した井伊直政のごとき役割を。
そして「大老」という非常職に就任した直弼。
国家権力者の最高位は将軍でしたが、家定は政務を執る状況にはありません。
そのため、大老が「日本国の最高国家権力者」でありました。
私が、この国の
最高意思決定者なのだ!
事実上の最高国家権力者となった瞬間でした。
私の手腕で、この国難を
切り抜けて見せよう!
もともと「埋木舎」にいた直弼が、意外にも彦根藩主となっただけでも驚きでした。
さらに、考えもしなかった大老に就任した井伊直弼。
この時、日本の歴史が大きくうねりを上げて、幕末維新へと突き進んでいった瞬間でした。
次回は上記リンクです。