前回は「信長に真っ向勝負挑んだ「四国の覇王」長宗我部元親〜四国を南から制圧した長宗我部・中央への視点と信長との関係〜」の話でした。

織田五番目の大軍団と長宗我部:南から制圧した長宗我部と島津

土佐の小さな豪族に過ぎなかった長宗我部元親は、父・国親の代に飛躍し、

土佐を制圧し、
四国を治めるのだ!



そして、中央の織田家とは
仲良くしておこう・・・
「四国の覇王」を目指した元親には、「天下を目指す」という発想は全くありませんでした。
「四国という島全体」を治めることこそが、元親の夢でしたが、



やはり、我が織田が天下を
治めるにあたり・・・



長宗我部に四国全部を
任せるわけにはいかんのだ!



おのれ!
信長、約束を違えおって!
「約束を破った」信長に対し激怒して、1582年に「織田との決戦」に果敢に挑もうとした元親。
そもそも「約束を破る」ことが日常茶飯事であったのが戦国時代でした。
むしろ「約束が守られる」方が異常事態であったとも言える時代において、



私は、織田家には早い時期から
誼を通じていたのだが・・・
「信長を信用していた」元親の方が「少し甘かった」と考えます。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
島津義弘 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
長宗我部元親 | 1539年 |
徳川家康 | 1543年 |
戦国のスターの中では、「最若手の一人」である長宗我部元親。
1582年には、42歳頃の壮年期に入っていました。
地元土佐や四国での戦いの経緯で、様々な裏切りや苦闘を制してきた元親。
「四国とは違う中央」への視点は、少し距離をおいていたのでしょう。
中国方面軍司令官:羽柴秀吉
近畿方面軍司令官:明智光秀
北陸方面軍司令官:柴田勝家
関東方面軍司令官:滝川一益
四国方面軍司令官:丹羽長秀(織田信孝)
「天下統一終盤期」に入った織田家において、五番目の大軍団・四国方面軍が編成されました。
そして、いよいよ織田vs長宗我部の死闘が繰り広げられる直前に、大事件が勃発しました。


ところが、本能寺の変で信長が横死してしまい、「織田の四国侵攻」は中断しました。



これで、織田との死闘は
避けられたが・・・
本能寺直前の「織田方面軍」と戦って勝つ見込みは、ほとんどなかったのが現実でした。
その中、「立ち向かう」決心をした元親でしたが、信長の横死にホッとしたでしょう。
秀吉を迎え討つ決断下した長宗我部元親:四国制圧の先


各地で覇王が登場し、各地で合戦が頻発して鎬を削った戦国期。
上の勢力図は、本能寺の変直後で、長宗我部元親の勢力圏はかなり巨大です。
九州では島津が南から、同様に四国では長宗我部が南から、それぞれの島を制圧しようとしていました。



ゆけっ!
我が長宗我部が四国を制圧するのだ!



我が島津が、
九州を手に入れるごわす!
九州と四国では、戦国大名の支配構図などが全く異なります。
一概に比較できませんが、長宗我部も島津も「南から北に上昇した」類似性は、興味深いです。



これからは、
この秀吉の時代よ!
この頃は、羽柴秀吉が柴田勝家らを降し、急速に勢力を拡大していた時代でした。



信長が消えたと
思ったら、次は羽柴か・・・



毛利と戦っていた
方面司令官だな・・・





我が長宗我部の取次であった
光秀殿とは、全然違う人のようだ・・・
早期に織田と付き合いを始めた長宗我部家の取次(担当)は、ずっと明智光秀でした。
その大きな理由は、元親と光秀が比較的近い親戚であったことでした。
この「長宗我部と明智の特別な関係」が、本能寺の変の一因とする説もあります。
明智光秀の重臣であり、「明智軍の軍の要」であった斎藤利三。
利三の実兄・石谷頼辰は長宗我部元親の妻の兄であり、長宗我部家にとって大事な存在でした。
本能寺の変における「明智と長宗我部」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。


若い頃、「姫若子」と呼ばれた元親にとって、秀吉と光秀であれば「光秀の方が合った」でしょう。
窓口であった明智光秀が本能寺の変を起こし、その光秀が秀吉によって討たれ、長宗我部も揺れました。
いわば「織田家の内部構想の渦に巻き込まれた」形となった長宗我部家。



光秀殿が秀吉に
討たれたか・・・



ここは、
四国で領土を広げるチャンスだ!
信長が消えたことで四国は小康状態に入り、着実に領土を拡張した元親。


そして、1585年に、悲願であった四国統一を果たした長宗我部元親。



ついに・・・
ついに四国統一だ!
ところが、そこに立ちはだかったのが秀吉でした。



長宗我部よ・・・
私に従え!



何を!
四国は我らが切り取ったのだ!
秀吉の一方的な通告に「従えるはずがない」長宗我部元親。
戦国大名として、元親は秀吉との決戦に「挑むしか他にない」状況でした。