前回は「歴代の長宗我部氏が土佐を睨んだ岡豊城〜「凛々しすぎる」長宗我部元親像・高知における圧倒的龍馬パワー〜」の話でした。

四国を南から制圧した長宗我部:中央への視点と信長との関係

今回は、長宗我部元親に関する話です。
織田信長の勢力が勃興し、近畿圏では織田が圧倒的になりつつありましたが、まだまだ群雄割拠でした。
武田、上杉、毛利などが健在な中、少しずつ地味に勢力を拡張していた長宗我部元親。

近畿では、
織田家の勢力が強いな・・・


現代とは、全く異なる日本列島の政治や経済の機構だった当時。
当時は、京・山城中心の国家像でした。
そして、現代のように自動車や飛行機がなかった当時は、船による海運が現代よりも重要でした。
そのため、大坂と海で繋がっていた四国の阿波・讃岐は「中央の影響が強い」エリアでした。





我が三好は摂津・河内・山城・
大和・阿波・讃岐に大勢力を築いた!
織田信長が登場する前の「事実上の天下人」であった三好長慶率いる三好家。
三好家は、最盛期には240万石程度有していた説が有力であり、超大大名でした。
近畿圏から四国北東部を影響下に収めた三好家の版図からも、「四国と近畿の近さ」が分かります。



織田家とは
早めに誼を通じておくのが良いな・・・
讃岐と阿波が中央と繋がっていたため、その隣国である土佐も「中央への視点」がありました。
さらに、一世の英雄であり、まだ弱小勢力であった長宗我部元親は、信長との接点を模索しました。
そして、長宗我部元親は土佐制圧に目処がついた1575年に、信長に使者を送りました。





土佐の
長宗我部か・・・



近畿制圧から
天下を望むにあたり・・・



四国との付き合いも
重要かも知れんな・・・
当時の信長にとっては、「四国にまで考えが及びにくい」状態だったでしょう。
その一方で、この1575年は「織田家にとって、大きな節目」でした。


長篠の合戦で、東の大敵・武田家に大痛撃を与えた信長は、非常に機嫌が良かったでしょう。



よしっ!
長宗我部の長男に我が一字を与える!



元親殿の長男は
信親と名乗るのが良いだろう!
この時点では、すでに「目上の存在」となっていた織田信長に対して、



それは大変有り難き
幸せです!
長男に偏諱を受けた元親の政治的視野は、抜群でした。



四国は
長宗我部に任せよう!
そして「四国は任せる」という信長の表明をもらうことに成功した元親。
もともと「天下を望む」姿勢はなく、「四国の覇王」を目指してた元親にとって、大きな節目でした。
信長に真っ向勝負挑んだ「四国の覇王」長宗我部元親


そして、メキメキと四国を制圧し始めていた長宗我部元親でしたが、信長が翻意してしまいました。
三好家を潰した信長でしたが、超名門であった三好家は、まだまだ影響力が強い存在でした。



織田家に、
我が三好家は潰されたが・・・



織田家の影響力は
絶大であり、織田の天下となる・・・



ここは、信長様に従って、
我が三好家の旧領の一部でも確保したい・・・
その三好家は、三好康長を中心として「信長の支配下となり、旧領を取り戻す」方針にしました。



信長様・・・
我が三好一党は織田家に従います・・・



その代わり、かつての
我らが領土の阿波などを頂けないでしょうか・・・
三好家としては、本拠地の摂津などを望みたいところでしたが、それは「到底無理」でした。
そこで、「信長に遠慮して」四国の一部をなんとか治めようと考えた三好。



まあ、三好の力は
まだまだ侮れんからな・・



よしっ!
阿波は三好に任せよう!
こうして、長宗我部元親に「四国は任せる」と約束した信長は、あっさり翻しました。



元親よ!
四国は、土佐と伊予あたりでどうだ?



お、おのれ・・・
信長めが・・・
「織田家と仲良く」していましたが、別に織田家から援助された訳ではなかった元親。
ここで、長宗我部元親は激怒してしまい、織田家との断交を決定しました。



ならば良い!
我が織田軍が四国を制圧するまで!
こうして、1582年、信長の三男・織田信孝と丹羽長秀を統領とする方面軍が編成されました。


当時は、織田四天王と呼ばれた羽柴・明智・柴田・滝川が各地方の方面軍を任されていました。
そして、織田信長に小さな頃からずっと従い、安土城築城の奉行も務めた有能な丹羽長秀。





私もいよいよ
方面軍総司令官だ!
丹羽長秀は大いに奮っていたでしょう。
中国方面軍司令官:羽柴秀吉
近畿方面軍司令官:明智光秀
北陸方面軍司令官:柴田勝家
関東方面軍司令官:滝川一益
四国方面軍司令官:丹羽長秀(織田信孝)
こうして、織田家の5番目の織田方面軍が形成されました。
新たな大軍団が生まれ、いよいよ織田家の天下統一が迫ろうとしていました。



我が長宗我部が
迎え討ってくれるわ!
土佐・阿波・讃岐の一部を制圧していたに過ぎない長宗我部元親。
長宗我部家は、明らか「織田家より遙かに劣勢」でした。
土佐の一豪族から、「織田家と決戦」する存在までのし上がった長宗我部元親。
その政治力・軍事力・知謀力は抜群であり、戦国トップレベルの大名・武将でした。
次回は上記リンクです。