本能寺の変 13〜明智光秀の所領の行方 2〜

前回は「本能寺の変 12〜明智光秀の所領の行方 1〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)

光秀が「「近江・丹波を召し上げて、まだ毛利領であった出雲・石見へ領地替えを命じられていた」説。

仮に「出雲・石見へ転封」の可能性があったとすると、確かに近江・丹波に比べると当時は「田舎」となります。

しかし、石見銀山は当時世界的に有名で、石見銀山から産出される銀は大変重宝されていました。

近江 浅井・朝倉戦 後半(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

日本国内のみに視点を向けると、「大都会で豊穣の地から田舎へ」と誤解しがちです。

しかし、石見銀山のある石見を支配できるとすると、大変な経済力を持つことができます。

光秀に石見を支配させても、信長は石見銀山を直轄地とすることを考えていたでしょう。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

私は経済力を最重視するのだ!

私の生まれ育った尾張周辺には、
金山・銀山があまりない。

そういえば、信玄が甲斐の金山から
大量の金を得ていたのう。

斐や佐渡の金山は国内で有名でしたが、国際的に最も有名で価値のある石見銀山。

その代官を任されることは、大変名誉で価値のあることでしょう。

明智 光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

石見銀山の代官は、
非常に大きなメリットだろう。

産出した銀のほとんどを
上様に差し出すとしても・・・

周辺の山々の開発をすれば、
新たな銀山があるかもしれぬ。

ひょっとしたら、金山もあるかもしれぬ。

山が多く、後進地域であった山陰地方。

海の向こうは中国・朝鮮でもあります。

中国などと
交易もできるかもしれぬ。

明智家の「出雲・石見への移封」は「創作」であり、なかったと考えます

そして、この話自体は、それほどデメリットだらけではないでしょう。

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