前回は「本能寺の変 12〜明智光秀の所領の行方・浅井朝倉戦・坂本城・光秀と信長の築城〜」の話でした。

「近江・丹波から出雲・石見」説
光秀が「「近江・丹波を召し上げて、まだ毛利領であった出雲・石見へ領地替えを命じられていた」説。
仮に光秀の所領が、「出雲・石見へ転封」の可能性があったと考えます。
確かに近江・丹波に比べると当時は「田舎」となります。
一方で石見銀山は当時世界的に有名で、石見銀山から産出される銀は大変重宝されていました。

日本国内のみに視点を向けると、「大都会で豊穣の地から田舎へ」と誤解しがちです。
仮に、石見銀山のある石見を支配できる場合、膨大な銀を産む「玉手箱」を手に入れることになります。
その場合、光秀は大変大きな経済力を持つことができます。
光秀に石見を支配させても、信長は石見銀山を直轄地とすることを考えていたでしょう。


私は経済力を
最重視するのだ!



私の生まれ育った尾張周辺には、
金山・銀山があまりない。



そういえば、信玄が甲斐の金山から
大量の金を得ていたのう。
武田信玄・上杉謙信は金山からの収入が、極めて大きな財源となっていました。
日本海に面した良港を持っていた上杉氏は「日本海の交易」による税収も大きかったです。





佐渡の金山は、
上杉家の軍事費の根源だ!
織田家の経済力と石見銀山
甲斐や佐渡の金山は国内で有名でしたが、国際的に最も有名で価値のある石見銀山。



まあ、経済力は
近畿だけでも十分なのだが・・・
実際、信長が家督を継ぐ頃から、経済力はピカイチだった織田家。
当時は、津島などの湊から上がる現金収入が、織田家の力の源泉でした。
そして、尾張から美濃・近江・伊勢・山城・摂津と、当時の日本の商業中心地を次々手に入れた織田家。


本能寺の変当時の織田家もまた、現金収入が非常に多く、「他家を圧倒していた」存在でした。



九州征伐に
光秀を活かせる際に・・・



光秀が九州の大名たちと
戦うのに、多額の軍資金が必要だろう・・・



ならば、石見銀山の
権利を丸ごと光秀にやっても良い・・・



光秀は我が家臣故、
明智家の発展は、すなわち我が織田家の発展だ!
信長は、このように考えたに違いないでしょう。
石見銀山の代官を任されることは、大変名誉で価値のあることでしょう。
さらに、石見銀山から算出される「全ての銀」とまでいかなくても、「ある程度の銀の管理」は光秀に任せそうです。





石見銀山の代官は、
非常に大きなメリットだろう。



産出した銀の半分を
上様に差し出すとしても・・・



膨大な銀が
明智家の手に入る・・・



周辺の山々の開発をすれば、
新たな銀山があるかもしれぬ。



ひょっとしたら、
金山もあるかもしれぬ。
山が多く、後進地域であった山陰地方。
海の向こうは中国・朝鮮でもあります。



明国などと
交易もできるかもしれぬ。
明智家の「出雲・石見への移封」は「創作」であり、「現実にはなかった」と考えます。
そして、この話自体は、それほどデメリットだらけではないでしょう。
この時、「出雲・石見への移封」は、本能寺の変の原因には「なり得ない」と考えます。