前回は「陸と海の番人」だった小田原城〜天然の外濠だった相模湾・北条家から徳川家へ・結束固い「北条帝国」を統治した家康〜」の話でした。
「凛々しすぎる」長宗我部元親像:高知における圧倒的龍馬パワー

高知県の岡豊城跡を訪問しました。
岡豊城跡は、高知県立歴史民俗資料館の隣にあります。
「岡豊城跡に隣接して、高知県立歴史民俗資料館が設計され、建築された」と考えます。
貴重な資料が多い高知県立歴史民俗資料館では、上の長宗我部元親像が出迎えてくれます。
数ある戦国大名の銅像の中でも、際立って若々しく、凛々しい長宗我部元親像。

思い切り剣を振り上げて、敵陣に乗りこむ様の長宗我部元親は、まさに四国を飛翔させた人物でした。
長宗我部元親像の背面にある階段を登ってゆくと、岡豊城跡へ到達します。
つまり、長宗我部元親像の背面の森全体が岡豊城跡です。
・戦国時代:1550年〜1615年頃(一部、江戸時代)
・幕末維新:1840年〜1870年頃
・第二次世界大戦:1938年〜1945年頃
歴史ファンが好きな時代は、上の三つの時代であり、中でも戦国時代が最も人気が高い傾向があります。
歴史雑誌の特集においても、戦国大名・戦国武将が目につく傾向があります。
そして、全国各地の歴史の観光地では、各地で城郭がトップである傾向があります。
長野県の松本城を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。
この「戦国武将や城郭が人気を牽引している」傾向は、高知県では大きく異なります。

あまりにも「坂本龍馬人気」が強すぎる高知は、空港の名称も「高知龍馬空港」です。
そのため、歴史ファンに限らず、一般の方にとっても、「高知と言えば坂本龍馬」の傾向があります。
高知県では「龍馬パワー」が圧倒的過ぎて、戦国〜幕末の時代が霞んでしまう気もします。
数ある戦国大名の中でも、幾分地味な存在に考えられがちな長宗我部元親。

四国の歴史を
牽引したのは、この長宗我部元親ぞ!
「凛々しすぎる」長宗我部元親像を見ていると、元親がそう言っているように感じます。
歴代の長宗我部氏が土佐を睨んだ岡豊城


長宗我部元親像の背面の階段を上がってゆき、岡豊城跡へ向かいました。
看板には「マムシ・ヘビ出没注意」と書いてあり、少し怯みました。
事前に調べれば、この「マムシ・ヘビ出没注意」は把握出来たかもしれませんが、普段着で向かいました。


長宗我部氏の代に廃城となってしまった岡豊城。
一時は、「四国の覇王」となった長宗我部元親率いた長宗我部軍団。
そのまま、長宗我部氏が土佐の大名であり続ければ、おそらく「かつての主城」の扱いだったでしょう。
そして、江戸期にも「それなりの扱い」を受け、小さな城・砦として存続したかもしれません。



この元親は、
岡豊城から飛躍したのだ!
豊臣秀吉と戦って敗れた後に、現在の高知城、そして土佐湾の浦戸城に移動した元親。
わずか数年のうちに、次々と本拠地を移転した元親の行為は、当時異例でした。
この頃の「元親の思惑」は不明です。


かつての石段と思われる遺構が、多数残っている岡豊城跡。


日本において、初めて成立した武家政権・鎌倉幕府の初期に、長宗我部氏は土佐入りした説が有力です。



全国に
守護・地頭を配置する!
1185年に全国に守護・地頭を配置した頼朝の政策によって、「守護による統治」が確立しました。
土佐守護は、近畿一帯の有力大名だった細川氏であり、守護代も細川氏である説が有力です。
この中、土佐に「向かった」と言われる長宗我部氏。



岡豊城を拠点として、
我が長宗我部は発展するのだ!
長宗我部氏は、元々は付近の大名・小名だったかも知れません。
そして、鎌倉初期から戦国時代に国親・元親が旋風を起こすまで土佐の拠点だった岡豊城。
次回は、岡豊城跡の歩いてゆきます。
次回は上記リンクです。