鎌倉に引き篭もった近衛文麿首相〜飛来した米強硬見解「三国同盟骨抜」・永野総長「早くやってもらいたいものだ」・陸軍「開戦已むを得ない」〜|陸海軍の迷走54・日米開戦と真珠湾へ

前回は「「10月上旬=10月15日」に衝撃を受けた近衛首相〜曖昧な及川海相・「緻密度」抜群の大東亜戦争全史・刻々近づく「最終和戦決定時機」〜」の話でした。

目次

鎌倉に引き篭もった近衛文麿首相:飛来した米強硬見解「三国同盟骨抜」

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1941年9月の帝国陸海軍統帥部:左上から時計回りに、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、及川古志郎海軍大臣、東條英機陸軍大臣(国立国会図書館、Wikipedia)
帝国国策遂行要領:1941年9月5日

帝国は現下の急迫せる情勢、特に米、英、蘭等各国の執れる対攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾発性等に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要領」中南方に対する施策を下記により遂行す

一、帝国は自尊自衛を全うするため、米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし、戦争準備を完整す

二、帝国は右(上)に並行して、米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む

三、前号外交交渉に依り、十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す

東條英機

10月上旬、とは
即ち10月15日、はっきりしよう!

近衛文麿

!!!!!!

近衛文麿

陸海軍統帥部長の、あの申し入れは、
果たして強い要望なりや。

東條英機

御前会議で「十月上旬頃」と決定したこと
そのままを述べたに過ぎない。

1941年9月25日の連絡会議において、このような会話が行われていた帝国政府・大本営。

後世の視点から見て、「戦争に導いた」と目されることが多い東條英機は「真っ当な主張」をしました。

御前会議で「10月上旬」と規定されていた、曖昧な文章を「10月15日」と譲歩した東條陸相。

ここで、東條陸相が「10月10日」と主張して、近衛首相が衝撃を受けた、ならば分かります。

ところが、どう考えても、「10月上旬まで=10月15日まで」は、日本語として問題ないはずでした。

禅問答のような会話を続ける中、極大衝撃を受けてしまった近衛首相。

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大東亜戦争全史2(服部卓四郎 著、鱒書房)
大東亜戦争全史2

かくして、近衛首相は鎌倉に引き篭もり、
政情不安を思わせるものがあった。

勝手に衝撃を受けて、

近衛文麿

ちょっと、頭を
冷やしますので・・・

鎌倉に引きこもってしまった近衛首相。

大東亜戦争全史2

時恰も米国は、十月二日附覚書を以て、
従来の日本の諸提案に対する明確な見解を寄せてきた。

大東亜戦争全史2

その骨子は、事前の諒解なき首脳会談を婉曲に
拒絶するとともに、下記を要求乃至示唆するものであった。

米国の要求:1941年10月2日

一、国家間の基本原則たる前記四原則の確認

二、支那及び仏印寄りの全面撤兵

三、日支間特殊緊密関係の放棄

四、三国条約の実質的骨抜

永野総長「早くやってもらいたいものだ」:陸軍「開戦已むを得ない」

新歴史紀行
Franklin Roosevelt米大統領(Wikipedia)
Roosevelt

Japanは、Chinaから
全面撤兵せよ!

Roosevelt

Japanは、Hitlerとの
同盟を空文化せよ!

まさに、当時の大日本帝国が「絶対受け入れられないこと」ばかり羅列した要求をしてきた米国。

大東亜戦争全史2

豊田外相は、十月四日の連絡会議において、
右覚書を示し、これに対する我方の回答電文案を提議した。

大東亜戦争全史2

この連絡会議には、外相の重大なる国策ゆえとの
意見により、特に首相、陸海外三相、両統帥部長のみが出席し、

大東亜戦争全史2

これに外務省の寺崎亜米利加局長が
加わっていた。

大東亜戦争全史2

東條陸相は、

東條英機

今度の米側回答は、イエスでもなく
ノーでもない。

東條英機

日本は、この際外交の見通しを
つけねばならぬ。

東條英機

事は極めて重大ゆえ、対米回答電文は
暫く措き、慎重に研究する必要がある。

大東亜戦争全史2

と
主張した。

この時期、「対米強硬派」であり、日本を「対米戦争に持って行った」と表現されることが多い東條英機。

真の歴史は、東條英機陸相は、「対米戦争に対しては、極めて慎重」でした。

大東亜戦争全史2

杉山参謀総長は、
直ちにこれに同意し、永野軍令部総長は、

永野修身

最早ディスカッションを
なすべき時ではない。

永野修身

早くやって
もらいたいものだ。

大東亜戦争全史2

と述べ、回答電文案の
審議に入ることなく、散会した。

ここで、「大東亜戦争全史2」の記録は、「帝国海軍が対米開戦強硬派」だったことを示しています。

東條英機

対米回答電文は
暫く措き、慎重に研究する必要がある。

杉山元

正に
その通り。

このように、帝国陸軍側は、「対米開戦慎重派」だったのに対し、対米開戦強硬派だった帝国海軍。

挙げ句の果てに、肝心の「回答電文案の審議」に入らずに終わってしまった連絡会議でした。

近衛文麿

・・・・・

ここにおいて、最早万策尽きた状況追い込まれた近衛首相。

大東亜戦争全史2

爾後、右米側の覚書をめぐって、
陸海軍間、並びに政府大本営間に真剣な個別討議が行われた。

大東亜戦争全史2

陸軍においては、十月六日首脳会談の結果、
次の如き方針を決定した。

帝国陸軍方針:1941年10月6日

一、陸軍は日米交渉妥結の目途なきものと認める。従って開戦は已むを得ない。

二、駐兵問題に就ては、その表現法をも含め規定の条件を変更しない。

三、若し外交当局に於て、妥結の見込みがあると云うならば、十月十五日を限度として交渉を続行するも差し支えない。

そして、帝国陸軍もまた「開戦は已むを得ない」と主張するに至りました。

ところが、実は、帝国陸軍は、帝国海軍ほど「明確に対米開戦派」ではなかったのでした。

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