前回は「「10月上旬=10月15日」に衝撃を受けた近衛首相〜曖昧な及川海相・「緻密度」抜群の大東亜戦争全史・刻々近づく「最終和戦決定時機」〜」の話でした。
鎌倉に引き篭もった近衛文麿首相:飛来した米強硬見解「三国同盟骨抜」

帝国は現下の急迫せる情勢、特に米、英、蘭等各国の執れる対攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾発性等に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要領」中南方に対する施策を下記により遂行す
一、帝国は自尊自衛を全うするため、米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし、戦争準備を完整す
二、帝国は右(上)に並行して、米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む
三、前号外交交渉に依り、十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
東條英機10月上旬、とは
即ち10月15日、はっきりしよう!



!!!!!!



陸海軍統帥部長の、あの申し入れは、
果たして強い要望なりや。



御前会議で「十月上旬頃」と決定したこと
そのままを述べたに過ぎない。
1941年9月25日の連絡会議において、このような会話が行われていた帝国政府・大本営。
後世の視点から見て、「戦争に導いた」と目されることが多い東條英機は「真っ当な主張」をしました。
御前会議で「10月上旬」と規定されていた、曖昧な文章を「10月15日」と譲歩した東條陸相。
ここで、東條陸相が「10月10日」と主張して、近衛首相が衝撃を受けた、ならば分かります。
ところが、どう考えても、「10月上旬まで=10月15日まで」は、日本語として問題ないはずでした。
禅問答のような会話を続ける中、極大衝撃を受けてしまった近衛首相。





かくして、近衛首相は鎌倉に引き篭もり、
政情不安を思わせるものがあった。
勝手に衝撃を受けて、



ちょっと、頭を
冷やしますので・・・
鎌倉に引きこもってしまった近衛首相。



時恰も米国は、十月二日附覚書を以て、
従来の日本の諸提案に対する明確な見解を寄せてきた。



その骨子は、事前の諒解なき首脳会談を婉曲に
拒絶するとともに、下記を要求乃至示唆するものであった。
一、国家間の基本原則たる前記四原則の確認
二、支那及び仏印寄りの全面撤兵
三、日支間特殊緊密関係の放棄
四、三国条約の実質的骨抜
永野総長「早くやってもらいたいものだ」:陸軍「開戦已むを得ない」





Japanは、Chinaから
全面撤兵せよ!



Japanは、Hitlerとの
同盟を空文化せよ!
まさに、当時の大日本帝国が「絶対受け入れられないこと」ばかり羅列した要求をしてきた米国。



豊田外相は、十月四日の連絡会議において、
右覚書を示し、これに対する我方の回答電文案を提議した。



この連絡会議には、外相の重大なる国策ゆえとの
意見により、特に首相、陸海外三相、両統帥部長のみが出席し、



これに外務省の寺崎亜米利加局長が
加わっていた。



東條陸相は、



今度の米側回答は、イエスでもなく
ノーでもない。



日本は、この際外交の見通しを
つけねばならぬ。



事は極めて重大ゆえ、対米回答電文は
暫く措き、慎重に研究する必要がある。



と
主張した。
この時期、「対米強硬派」であり、日本を「対米戦争に持って行った」と表現されることが多い東條英機。
真の歴史は、東條英機陸相は、「対米戦争に対しては、極めて慎重」でした。



杉山参謀総長は、
直ちにこれに同意し、永野軍令部総長は、



最早ディスカッションを
なすべき時ではない。



早くやって
もらいたいものだ。



と述べ、回答電文案の
審議に入ることなく、散会した。
ここで、「大東亜戦争全史2」の記録は、「帝国海軍が対米開戦強硬派」だったことを示しています。



対米回答電文は
暫く措き、慎重に研究する必要がある。



正に
その通り。
このように、帝国陸軍側は、「対米開戦慎重派」だったのに対し、対米開戦強硬派だった帝国海軍。
挙げ句の果てに、肝心の「回答電文案の審議」に入らずに終わってしまった連絡会議でした。



・・・・・
ここにおいて、最早万策尽きた状況追い込まれた近衛首相。



爾後、右米側の覚書をめぐって、
陸海軍間、並びに政府大本営間に真剣な個別討議が行われた。



陸軍においては、十月六日首脳会談の結果、
次の如き方針を決定した。
一、陸軍は日米交渉妥結の目途なきものと認める。従って開戦は已むを得ない。
二、駐兵問題に就ては、その表現法をも含め規定の条件を変更しない。
三、若し外交当局に於て、妥結の見込みがあると云うならば、十月十五日を限度として交渉を続行するも差し支えない。
そして、帝国陸軍もまた「開戦は已むを得ない」と主張するに至りました。
ところが、実は、帝国陸軍は、帝国海軍ほど「明確に対米開戦派」ではなかったのでした。

