前回は「Malayの叫び 4〜日本陸海軍とマレー・山下奉文・辻政信・小沢治三郎・南方資源地帯・油田・南遣艦隊〜」の話でした。
険悪な各国陸海軍の仲

どの国でも仲が良くない陸軍と海軍。
それはお互いが、
俺たち
陸軍の方が上だぜ!
我々、海軍がいなければ、
何もできないだろう!
そもそも、
軍隊は陸軍が先に誕生した!
それはそうだが、
海の向こうで戦うには・・・
海上援護も
非常に大事だ。
それとも、陸軍の連中は
海の上を飛んで戦うのか?
まあ、我が陸軍の作戦に
海上援護が大事なことは、その通りだ・・・
お互いの利益がぶつかり合う時も多く、それぞれのプライドがあります。
どの国でも「陸海軍の仲は険悪」なのですが、日本においては「険悪」を超えていました。
見方によっては「陸海軍の間に確執がある」とも言えるほど、非常に仲が悪かった日本陸海軍。
日本陸軍と日本海軍

海軍が非常に大事な島国・日本。
日本においても近代国家建設時において、まず重視されたのは陸軍でした。
「明治新政府の顔」とも言える西郷隆盛は、当時「ただ一人」の陸軍大将に就任しました。

日本で、ただ一人の
陸軍大将ごわす・・・
のちには「近衛都督」も兼任した西郷は、名実ともに「日本陸軍の頂点」にいたのでした。


幕末、米英仏露などの国が海を渡ってきました。
どの国も強力な海軍を持っていることに驚愕した日本。
陸軍優先でしたが、
海軍も
非常に大事だ!
そして、幕府の海軍重鎮だった勝海舟を初代海軍卿に据えます。


私たちは
海軍のことは良くわからない・・・
海軍は
勝さんにお任せしたい・・・



まあ、俺は咸臨丸で
メリケン(米国)にも行ったしな・・・





俺が新しい国の海軍は
なんとかしよう!
ハッタリ屋の大言壮語の人物だった勝。
咸臨丸では、



俺が咸臨丸を
操艦したんだ!
と言っていますが、実際には、
Katsuさんは、
具合が悪そうで、大して役立たなかったよ・・・
はるばる通り米国までゆくには、米海軍士官たちが操艦したのでした。
格下だった海軍:伏見宮軍令部総長の改革
現代は空軍もありますが、陸軍と海軍を「陸海軍」とまとめることはあっても「海陸軍」とは言いません。
それだけに、陸軍が主体であり、旧日本軍においても、将兵の数は遥かに陸軍が多かったのでした。
そもそも、海軍の軍令部総長は、かつては軍令部長と呼ばれ、陸軍の参謀総長の格下的存在だったのです。
それを、変えたのが、皇族出身だった伏見宮博恭王 軍令部総長。





島国日本で、
海軍が陸軍の下でどうする?!



軍令部長は軍令部総長となって、
参謀総長と対等だ!
軍令部長から、軍令部総長へ名前を変更し、権限を一気に強化しました。
参謀本部の長が「参謀総長」であり、軍令部の長は「軍令部総長」となりました。
「軍令総長」の方がシンプルで呼びやすそうですが、なんとなく「軍令部総長」の方が偉そうな印象があります。
少し長くしたのはおそらくは、



名前に
風格を与えるのだ!



「海軍が陸軍より下」という歴史に、
名実ともにピリオドを!
という意志があったのでしょう。
異常に険悪な大日本帝国陸海軍
戦時中は、陸海軍で異なる航空機・飛行機を生産していました。
それぞれで要求性能が異なるためですが、それら航空機を製作する工場では、
おい!
海軍にバレないようにしろよ!
陸軍の連中に
海軍の航空機の秘密を悟られるな!
という感じで、陸海軍の航空機生産ラインの間には、非常に大きな壁を立てました。


その上、厳重な出入りチェックまでしていたのでした。
まるで「敵国」であるかのような、異常に険悪な日本の陸海軍。
小沢治三郎の男気:軍人の鑑


そして、このマレーの地で、南遣艦隊司令長官であった小沢治三郎。
この頃の日本海軍の主眼は米国であり、少し脇役的存在でした。





是非とも、海軍は
我が陸軍のマレーでの作戦を補佐して頂きたい!



陸のマレーを攻めるのは、
我が陸軍なのだ!
と「一方的な陸軍の要求」を突きつけてきた辻参謀に対して、小沢長官は内心



小僧が、
勝手なことを言いおって・・・
と思いながらも、



海軍は陸軍に
協力しよう!
と「陸軍を補佐する海軍」を引き受けました。



陸軍の軍事活動を
補佐して見せよう!
と言った小沢長官の決断。
それは、非常に男気ある決断だったのでした。