前回は「熊本城のきらめき 1〜熊本城と熊本鎮台〜」の話でした。

現代日本において、姫路城と並び有名な熊本城。
規模が大きく、より優美な姫路城は世界遺産であり、国宝です。
対して、重要文化財である熊本城は、格はやや落ちるかもしれません。
一方で、歴史の中においては、熊本城の方が有名であり、重要であるとも言えるでしょう。

そもそも熊本は、隈本という地名で、のちに加藤清正が国主となった時に、地名変更されました。
隈本エリアは、最盛期には九州で6もの守護を兼ねた大友家が領有していました。

豊前から豊後などの北九州へ勢力を拡張していった大友家。

のちに、耳川の合戦で島津に大敗北し、凋落する大友家。

1570年頃は大友家が最強で、龍造寺すら「大友に従属」していたころです。
この頃、大友は北九州の筑前・豊前エリアをまとめ上げ、南側はちょうど隈本(熊本)付近が最前線となっていました。
そして、島津と大友の決戦は、1578年に日向で行われました。
この「耳川の戦い」で前代未聞レベルの大敗を喫した大友家。

まさか・・・
まさに九州最強であった大友家が凋落して、大きく勢力が後退しました。


続いて、「大友の下」とも言える存在に過ぎなかった龍造寺家が大きく興隆しました。





俺に
続け!
肥前を本拠地とした龍造寺隆信は、東へ南へと九州で急速に勢力を拡大しました。



五州二島の
領主よ!
瞬間的には「九州最大の勢力」に成長した龍造寺家。
その南へと勢力を伸ばした先に、ちょうど隈本(熊本)が位置しています。
長らく、菊池氏・城氏などが領有した隈本でしたが、当時の熊本城は砦程度の規模であったと考えられます。
九州の北西から勢力を伸ばす龍造寺と、南から勢力を伸ばす島津。
この二つの勢力がぶつかり合うのは、時間の問題でした。
両軍共に強力な水軍を持たないため、基本的には地上戦の合戦でぶつかり合います。



肥後から
島津を攻めよ!
と、この頃、龍造寺隆信は考えていたでしょう。
その場合、前線である肥後で大きな合戦が行われることになります。
隈本(熊本)周辺では、龍造寺家によって拠点構築・城や砦の大規模改修が計画されていたでしょう。
城攻めよりも野戦で強力な龍造寺は、やはり野戦で最強の島津家とぶつかります。





我が島津が
九州で最強となるのだ!
そもそも、九州で最も名門であるのは島津家です。



我が島津家は、
鎌倉時代以来の名門!
大友家も名門でしたが、そもそも鎌倉時代から守護となっていた島津家。
格が違います。
そして、島津家と龍造寺家が対峙し、大きな合戦が行われるのが確実な情勢となりました。
島津・龍造寺が戦う決戦の場。
それは、両勢力が接する肥後しかない状況となりました。


この頃、まだ立派な城ではない「隈本城」は、両勢力にとって、最前線基地の一つとなる予定だったのです。