熊本城のきらめき 2〜戦国期の熊本城〜|九州・熊本の歴史

前回は「熊本城のきらめき 1〜熊本城と熊本鎮台〜」の話でした。

熊本城(新歴史紀行)

現代日本において、姫路城と並び有名な熊本城。

規模が大きく、より優美な姫路城は世界遺産であり、国宝です。

対して、重要文化財である熊本城は、格はやや落ちるかもしれません。

一方で、歴史の中においては、熊本城の方が有名であり、重要であるとも言えるでしょう。

1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

そもそも熊本は、隈本という地名で、のちに加藤清正が国主となった時に、地名変更されました。

隈本エリアは、最盛期には九州で6もの守護を兼ねた大友家が領有していました。

1562-68年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

豊前から豊後などの北九州へ勢力を拡張していった大友家。

戦国大名 大友宗麟(Wikipedia)

のちに、耳川の合戦で島津に大敗北し、凋落する大友家。

1570年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

1570年頃は大友家が最強で、龍造寺すら「大友に従属」していたころです。

この頃、大友は北九州の筑前・豊前エリアをまとめ上げ、南側はちょうど隈本(熊本)付近が最前線となっていました。

そして、島津と大友の決戦は、1578年に日向で行われました。

この「耳川の戦い」で前代未聞レベルの大敗を喫した大友家。

まさか・・・

まさに九州最強であった大友家が凋落して、大きく勢力が後退しました。

1582年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

続いて、「大友の下」とも言える存在に過ぎなかった龍造寺家が大きく興隆しました。

戦国大名 龍造寺隆信(Wikipedia)

俺に
続け!

肥前を本拠地とした龍造寺隆信は、東へ南へと九州で急速に勢力を拡大しました。

五州二島の
領主よ!

瞬間的には「九州最大の勢力」に成長した龍造寺家。

その南へと勢力を伸ばした先に、ちょうど隈本(熊本)が位置しています。

長らく、菊池氏・城氏などが領有した隈本でしたが、当時の熊本城は砦程度の規模であったと考えられます。

九州の北西から勢力を伸ばす龍造寺と、南から勢力を伸ばす島津。

この二つの勢力がぶつかり合うのは、時間の問題でした。

両軍共に強力な水軍を持たないため、基本的には地上戦の合戦でぶつかり合います。

肥後から
島津を攻めよ!

と、この頃、龍造寺隆信は考えていたでしょう。

その場合、前線である肥後で大きな合戦が行われることになります。

隈本(熊本)周辺では、龍造寺家によって拠点構築・城や砦の大規模改修が計画されていたでしょう。

城攻めよりも野戦で強力な龍造寺は、やはり野戦で最強の島津家とぶつかります。

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

我が島津が
九州で最強となるのだ!

そもそも、九州で最も名門であるのは島津家です。

我が島津家は、
鎌倉時代以来の名門!

大友家も名門でしたが、そもそも鎌倉時代から守護となっていた島津家。

格が違います。

そして、島津家と龍造寺家が対峙し、大きな合戦が行われるのが確実な情勢となりました。

島津・龍造寺が戦う決戦の場。

それは、両勢力が接する肥後しかない状況となりました。

熊本城(新歴史紀行)

この頃、まだ立派な城ではない「隈本城」は、両勢力にとって、最前線基地の一つとなる予定だったのです。

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