上杉謙信 9〜長尾景虎の深謀と権威〜|戦国武将

前回は「上杉謙信 8〜長尾景虎の上洛〜」の話でした。

上杉 謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

もともと独立意識の強い国衆が非常に多い越後。

上杉謙信:越後統一(歴史群像シリーズ 戦国合戦大全 学研)

1551年に、長尾景虎はなんとか越後の統一を果たしました。

と言っても、越後北方の揚北衆は、

俺たちは俺たち!
長尾家なんか関係ないぜ!

長尾家に従う気はサラサラありません。

1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

そのなか、信濃北部の有力国人であった村上義清が越後に頼ってきました。

武田晴信と
戦うのも近いな・・・

後年、「軍神同士の戦い」とも言われる、上杉謙信と武田信玄が戦った「川中島の戦い」。

それは後世から見た視点であり、この頃の長尾景虎は、まだ若造で実力も未知数でした。

そして、なんと言っても名声がほとんどなかった景虎。

第一次川中島の戦いが勃発した1553年は、まだ24歳(数え年)でした。

武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

対して、甲斐から信濃へと勢力を急拡大させた武田晴信は33歳です。

9歳の年齢差(学年では8年)があり、この年代の「9年の差」は非常に大きいです。

優れた家臣団もいて、名声も高い武田晴信。

長尾景虎が
ワシに歯向かうのか?

ならば、叩き潰して
みせよう!

そもそも、武田家は甲斐守護であり、越後守護代の長尾家よりも遥かに家格が上です。

守護代ごときが、
守護に楯突くとは!

守護と守護代では、全然身分が違います。

この頃、すでに戦国時代の佳境に入り、室町幕府の権威が著しく下がっていました。

といっても、「もともとあった権威」が消えるはずはなく、「守護」と言えば「国を有する者」だったのです。

対して「守護代」とは、「守護の代わりに国を預かる者」に過ぎません。

晴信と
戦うには、もう少し権威が欲しい・・・

合戦には
自信があるのだが・・・

のちに「戦国最強の軍神」となった長尾景虎。

しかし、まだ24歳では、老練な晴信から見れば、

小僧!

でしかありません。

「村上義清を保護する」立場として、

守護代では
弱い・・・

そのため、2,000名もの軍勢を引き連れて上洛した景虎。

かなりの経費と「国をあける」危険を冒しながらも、上洛しました。

前年の1552年には「従五位下・弾正少弼」に叙任され、一定の権威を持った景虎。

さらに将軍家に拝謁して、
長尾家の権威を高めよう!

室町幕府第十三代将軍 足利義輝(Wikipedia)

私は今は
京にはいない・・・

三好・松永に
追い出された・・・

戦国大名 三好長慶(Wikipedia)

この頃、畿内で200万石ほどの力を持っていた三好家。

戦国大名 松永 久秀(Wikipedia)

そして、その執事のような立場でありながら「三好家を動かしていた」松永久秀。

長尾殿。
よく京へお越しで・・・

ゆっくり見物
して行って下さい。

当時、大した勢力がいなかったために、合戦ではさほど苦労しなかった三好と松永。

越後の屈強な軍隊と、若く眼光鋭い景虎の姿をみて、

長尾は
敵に回さない方が良さそうだ・・・

と考えたのでした。

景虎が、

なんとしても、
将軍義輝様を京へ戻す!

と決意していれば、2,000名の長尾家・越後兵が三好・松永と合戦となったかもしれません。

しかし、2,000名は大軍勢ですが、三好・松永はそれを遥かに上回る軍勢を手にしています。

今は、三好・松永とも
ほどほど上手くやった方が良いだろう・・・

そう考えた景虎。

将軍には拝謁できなかったものの、「上洛した」という実利をとり、晴信と対抗します。

まだ若いながらも、景虎は戦ばかりではなく、かなり深謀遠慮に長けた熟練した人物であったのでした。

新歴史紀行

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