前回は「「岩倉公実記」から見る幕末維新の真相〜「幕末維新の大妖怪」岩倉具視の視点と歴史〜」の話でした。
幕末維新から新政府にかけた横断的視点「岩倉公実記」

「岩倉具視に関する伝記」である岩倉公実記から、幕末維新の真相を考えてみたいと思います。

・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
筆者が考える「維新の四傑」の中で、西郷隆盛以外は、具体的な記録が豊富です。
岩倉以外に、大久保は「大久保利通日記」、木戸は「木戸孝允日記」を遺しています。
それぞれ自身の日記であり、かなり偏りがあり、所々で、大久保は本音を漏らしています。
「偏りがある」ものの、大久保と木戸が関与した事実、自ら感じたことの記録として極めて貴重です。
幕末維新の歴史を、「朝廷側から見ていた」岩倉は、薩長と早い時期から接触していました。

薩摩の大久保
一蔵です・・・



おう・・・
薩摩の大久保か・・・
事実上の藩主であった国父・島津久光の「秘蔵っ子」であった大久保利通(当時は一蔵)。
大久保は、幕末から「朝廷の討幕側のボス格」であった岩倉と陰謀を企て続けました。



実は、当初は
公武合体であったが・・・
岩倉具視は、当初は「和宮降嫁」に尽力した「公武合体派」でしたが、その後失脚しました。
幼い頃から「公家らしくなかった」岩倉に関する話を上記リンクで、ご紹介しています。
「下っ端」とは言え、公家であった岩倉は、「下級藩士」であった大久保とは格が違う存在でした。
そして、明治新政府となり、事実上の首相に就任した岩倉具視。
つい先日まで、



おい、大久保よ・・・
次は、この手を打つか・・・



はっ、岩倉様の
仰せの通りに・・・
このように「上下関係がはっきりしていた」仲であった岩倉と大久保。
新政府となり、大久保が一気に飛躍して、新政府重役となり、



大久保・大蔵卿・・・
この件は、このように考えては・・・



そうですね、岩倉・外務卿は
そのように考えますか・・・
新政府内では、岩倉がやや上ながら、「同格の卿(大臣)」になりました。
一方で、これは「公式の場」での話であり、人間関係は、そう簡単に変わらないです。
新政府においても、「岩倉が上」の状況が続き、岩倉は最後まで最高位を保ち続けました。
幕末から維新、そして新政府の「岩倉の視点」の記録が、岩倉公実記です。
幕末維新から新政府にかけて、「横断的視点」が見受けられると考えます。
「鹿児島県反乱発端ノ事」:篠原国幹と桐野利秋のポジション


早速、岩倉公実記を見てゆきましょう。
今回は、明治初期の大事件、西南戦争につながる状況を見てゆきます。
岩倉公実記の「鹿児島県反乱発端ノ事」において、西郷たちが下野したことに触れています。



陸軍大将西郷隆盛、
職ヲ辞シテ鹿児島ニ還ル・・・



陸軍少将篠原国幹、桐野利秋、
之ニ従フ・・・
このように「西郷下野に篠原と桐野が従って辞職した」ことが明記されています。


つまり、新政府側から見れば、「西郷+篠原・桐野」であったことが示されています。
名前 | 生年 |
西郷 隆盛 | 1828 |
村田 新八 | 1836 |
篠原 国幹 | 1837 |
桐野 利秋 | 1839 |
別府 晋介 | 1847 |
明治六年の政変で下野したのは、篠原・桐野以外に、村田新八や別府晋介がいます。
別府晋介は若造としても、村田新八は教養もあり、新政府の重役だった人物でした。





私は若い頃から、
西郷先生を尊敬していた・・・
若い頃から、西郷に兄事し、常に一緒だった村田新八。



沖永良部島に
流されたごわす・・・
西郷が、島津久光の逆鱗に触れて、沖永良部島に島流しになった時も、



私は喜界島に
流されました・・・
「西郷と連座」するように、「一緒に別の島に流された」村田新八。
いわば、「西郷と一心同体」であったのが村田でした。





新政府では宮内大丞に
就任し・・・



岩倉使節団にも
参加して、米欧へ行きました・・・
「西郷の弟分」であり、有能であった村田は、当然、新政府でも重視され、岩倉使節団に参加しました。
「岩倉」使節団の団長であった、岩倉は、当然、村田のことを認識していましたが、



西郷以外は、
まずは軍人の篠原と桐野・・・
西郷が下野した瞬間に「反乱を危惧した」であろう岩倉たち、新政府重役たち。



新政府のやり方は
気に入らん!



おいどんも、
西郷先生についてゆく!
西南戦争時には、「桐野利秋が独断専行して薩軍を指揮」と伝えられています。
確かに、岩倉も「桐野を重視」していたのは事実ですが、この「西郷に次いで、篠原・桐野」の視点。
この「岩倉=新政府の視点」からも、「桐野の独断」は事実と異なると考えます。
次回は上記リンクです。