前回は「明治維新の大黒幕・岩倉具視〜討幕の大陰謀の基地となった岩倉邸・偽勅と偽錦旗の偽造・異常なパワーで維新を大推進した公家・ピカイチの政治的度胸・辞官出家と蟄居落魄〜」の話でした。

公家らしくなかった岩倉具視:「岩吉」と呼ばれた幼少期

1825年、幕末に公家の家に生まれた岩倉具視。
実父の堀河康親(ほりかわ やすちか)は、仁孝天皇・孝明天皇に支えた従二位権中納言の公卿でした。
「それなりの家柄」に生まれた岩倉具視は、元は「堀川」を名乗っていました。
ここでは、「岩倉」で通します。

なんと言っても、
麿は公家だからな・・・
後世、「幕末」と呼ばれる時代ですが、少なくとも、岩倉具視が成人した1840年頃は、



徳川幕府の力は、
強力だな・・・
まだまだ、日本政府であった徳川幕府は、絶大な影響力を持っていました。
そして、天皇と朝廷を補佐する役目である公家は、



天皇を補佐して、
朝廷を、ほどほどに運営すれば良い・・・
「決まったしきたり」に従っていれば良い時代でした。
ここで、生まれながらして「普通の公家」とは、考え方が全然違ったのが岩倉具視でした。



麿は、しきたりに従った
「決まった人生」を歩みとうないな・・・
幼名は周丸(かねまる)でしたが、豪放磊落だった岩倉は、周囲から、



周丸は、なんだか堂々としているから、
岩吉(いわきち)と呼ぼう・・・
周囲から「岩吉」と呼ばれていた説があります。
のちに「岩倉家に養子縁組になる」ので、「岩倉の岩」の字があるのが不思議です。
この「岩吉と呼ばれていた」説は、後に「岩倉姓になる」ことと関係があるようにも感じられます。
この意味では、「岩吉と呼ばれていた」説は、「後付け」かもしれません。



私は、普通の公家とは
小さい頃から違っていたのだ!
小さい頃から「公家らしくなかった」岩倉具視は、「小さい頃から普通ではなかった」ことを意識して、



私は、小さい頃から
「岩吉」と呼ばれていた!
後に、こう言った可能性もあります。
岩倉には「岩倉公実記」という書籍がありますが、この「岩吉説」の根拠の記録にもよります。
羽林家・岩倉家に養子縁組:「上が望めぬ」下級公家の立場





私が徳川将軍であり、
16年ほど続けたのだ!
1840年当時は、第十二代将軍 徳川家慶の時代であり、徳川幕府の力にも安定感がありました。



麿は、しきたりに従った
「決まった人生」を歩みとうないな・・・
一方で、240年ほどの長きに渡って継続していた幕藩体制・封建制度は、少しずつ軋んでいました。
公家ながら、「世間の空気」を鋭敏に感じ取る能力を持っていた岩倉具視は、



だが、どうも時代が
変化しているようにも感じる・・・
「時代の変化」を感じながらも、京周辺で「普通の公家」として生きていました。
そして、12歳1838年に岩倉家に養子縁組して、「堀河から岩倉に変わった」岩倉具視。



今日から、麿は
堀河からではなく、岩倉です!
ランク | 家格 | 家 |
1 | 摂家 | 近衛・一条・九条・鷹司・二条 |
2 | 清華家 | 三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭 |
3 | 大臣家 | 正親町三条・三条西・中院 |
4 | 羽林家 | 姉小路・冷泉・四条・正親町・持明院・ 今城・堀河・岩倉・綾小路・久世など |
5 | 名家 | 烏丸・坊城・梅小路・日野・北小路など |
6 | 半家 | 竹内(清和源氏)・西洞院家(桓武平氏)など |
当時の公家・公卿は明確なランクがあり、トップは摂家でした。
摂家は、近衛・一条・九条・鷹司・二条の五つの「別格の家」であり、「五摂家」とも呼ばれます。


第二次世界大戦で対米戦開戦直前まで総理だったのが、近衛家出身の近衛文麿でした。
朝廷を守る「近衛兵」という言葉がある通り、近衛は五摂家野中でも、さらに別格です。
そして、養子縁組して、同じ羽林家の堀川家から岩倉家に移った岩倉具視。
家格は変わらなかったため、特に「未来が開けた」とは言えないと考えられます。
当時は、大名も公家も養子縁組が多かったので、風習の一つだったかもしれません。



羽林家の岩倉具視で
ある!
上のランクの摂家・清華家・大臣家と異なり、羽林家から下は多数の家がありました。
羽林家とは「羽の如く速く、林の如く多い」の意味です。
この点から見れば、家格は四番目ですが、「多数いる公家の一つ」に過ぎないのが岩倉家でした。
いわば「下級公家の一人に過ぎない」立場だった岩倉具視。



家柄で、出世の全てが
決まっているのか・・・
小さい頃から「公家らしくなかった」岩倉は、長じて大政治家となりました。
もし、岩倉具視が、摂家までいかなくても、もう少し上の家柄に生まれていたら、



上級公家である、
我が家の後継者として、しっかりせよ!



はい・・・
しっかり学びます・・・
後の明治維新の時期の政治家と言うよりも、「大謀略家・岩倉具視」は存在しなかったでしょう。
この点から、岩倉が「下級公家」であったことは、日本の歴史に大きな影響を与えました。