私学校生徒に「迫られていた」西郷隆盛〜剣の達人大山綱良県令・「唯一人の陸軍大将」であり続けた西郷・篠原+桐野と私学校〜|岩倉公実記3・西南戦争・エピソード

前回は「幕末維新から新政府にかけた横断的視点「岩倉公実記」〜「鹿児島県反乱発端ノ事」・篠原国幹と桐野利秋のポジション〜」の話でした。

目次

「唯一人の陸軍大将」であり続けた西郷隆盛:篠原+桐野と私学校

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)

前回に続き、岩倉公実記のおいて、岩倉の視点から西南戦争の端緒を見てみます。

明治六年の政変で、西郷隆盛はじめ多数の人物が下野しました。

岩倉公実記

鹿児島県
反乱発端ノ事・・・

後に士族の反乱の中でただ一つ「戦争」という名称が付く西南戦争。

岩倉たちの視線から見れば、大小に関わりなく「反乱」でした。

西郷が中心となり、鹿児島に帰ってしまった士族たちを私学校に集めた話を正米しています。

岩倉公実記

国幹利秋日ニ出テ
校事を督ス・・・

岩倉公実記

隆盛亦時々
来リ之ヲ視ル・・・

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明治六年の政変:左から反時計回りに、陸軍大将 西郷隆盛、陸軍少将篠原国幹、同 桐野利秋

私学校の組織運営は、ほとんど篠原国幹+桐野利秋だった事が明記されています。

西郷隆盛

おいどんは、政府の
職を全て辞任するごわす!

岩倉や大久保のやり方に激怒した西郷は、1873年に「全ての職」を辞任しました。

ところが、西郷が兼務した多数の職は辞任が受け入れられたものの、

大久保利通

吉之助さぁの
陸軍大将は、そのままで・・・

大久保利通

いつか、いつか
政府に帰ってくることを期待して・・・

大久保たちは、「西郷が戻る」事の期待もあり、陸軍大将の辞任を受理しませんでした。

つまり、明治政府「唯一人の陸軍大将は、西郷隆盛のみ」の状況が続きました。

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左上から時計回りに、永野修身 軍令部総長、山本五十六 連合艦隊司令長官、山口多聞 第二航空戦隊司令官、南雲忠一 第一航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社、Wikipedia)

第二次世界大戦の頃は、同時期に陸海軍共に大将は複数いましたが、西郷の頃は「唯一人」でした。

そして、この頃は「海軍創世記」だったため、「海軍大将は不在」でした。

近衛兵をまとめる近衛都督は山縣有朋でしたが、「明治政府の軍の頂点」であり続けた西郷。

西郷隆盛

おいどんは、
陸軍大将のままごわす!

後世、私学校設立から西南戦争まで「桐野中心」と語られることが多いですが、

岩倉公実記

国幹
利秋・・・

岩倉公実記では、明確に「篠原+桐野」という序列が付けられています。

そして、「篠原+桐野」に任せながらも、

西郷隆盛

おいどんも、時々
私学校を見にゆくごわす!

西郷が私学校運営に「直接関与」していた事実も明記されています。

私学校生徒に「迫られていた」西郷隆盛:剣の達人・大山綱良県令

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鹿児島県令 大山綱良(Wikipedia)

ここで、もう一人薩摩の超重要人物が登場します。

鹿児島県令だった大山綱良です。

名前生年
大山 綱良1825
西郷 隆盛1828
大久保 利通1830
村田 新八1836
篠原 国幹1837
桐野 利秋1839
別府 晋介1847
明治時代の有力旧薩摩藩士

「西郷中心」で語られることが多い、明治六年の政変から西南戦争にかけての時代。

大山綱良

おいは、鹿児島
県令じゃ!

剣の達人でもあった大山綱良は、薩摩において常に主流派にいました。

幕末の三大志士グループ

・長州・松下村塾:高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、井上馨など

・薩摩・精忠組:西郷隆盛、大久保利通、有馬新七、大山綱良など

・肥前・義祭同盟:江藤新平、副島種臣、大木喬任など

西郷・大久保たちと共に精忠組にいた大山は、西郷よりも年上であり「お兄さん」役でした。

薩摩藩士同士が「斬り合う」ことになった、凄惨な寺田屋の変では、

大山綱良

おいが、過激派藩士の
粛清の中心人物じゃった!

寺田屋で率先して、過激派を剣で倒した強豪の人物でした。

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旧薩摩国父 島津久光(国立国会図書館)
島津久光

大山は、
私の忠実な家臣だ・・・

廃藩置県が行われ、実権を失ったとは立場ながら、隠然たる影響力を有していた島津久光。

鹿児島県令となった大山綱良は、島津久光の覚えもめでたく、旧薩摩藩士のボス格でした。

大山綱良

一蔵のやり方は、
おいは好かんぞ!

今や明治政府の超大物となった大久保利通も、大山から見れば「一蔵」に過ぎませんでした。

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岩倉公実記:皇后宮色御蔵版(新歴史紀行)
岩倉公実記

隆盛ハ県令大山綱良ニ
謂テ曰ク・・・

岩倉公実記

私学校ノ初生ハ読書講武ニ従事シ
吏務ニ習ハス・・・

岩倉公実記

請フ区長等ノ吏ハ私学校ノ諸生ヲ以テ
之二任シ其偏ヲ済ハンコトヲ・・・

私学校の事実上の校長であった西郷は、県令であった大山に対して、

西郷隆盛

我が私学校出身者を
鹿児島県の官吏にして欲しい・・・

大山綱良

おお、
もちろんだ!

「私学校出身者」を鹿児島県の役人にすることを依頼した事実が明記され、大山は快諾しました。

そして、3年ほど経過した1876年に萩の乱、神風連の乱が起きた際は、

岩倉公実記

私学校ノ諸生ニシテ
隆盛ニ迫リ機ニ乗シ事ヲ挙ゲント・・・

西郷に対して、決起を促す私学校生徒たちの様子を描いています。

この「決起を促した人物」には、当然、桐野も入っていそうですが、桐野には触れていません。

私学校生徒

各地で反乱が起きている今、
今こそ決起すべきです!

学校を超えて、政治結社であった私学校の生徒たちは、こう西郷に「迫った」と描かれています。

本来ならば、西郷は「迫られる」立場ではなく、私学校生徒から見れば「超然たる存在」だったはずです。

ところが、この岩倉公実記に明記された「隆盛ニ迫リ」に、この当時の私学校の様子が見て取れます。

そして、この後に西南戦争を引き起こすに至った西郷隆盛。

岩倉公実記

隆盛敢テ
聴カス・・・

西郷は、反乱を「迫る」私学校生徒の話を「聴かなかった=無視した」と描かれています。

岩倉公実記

国幹利秋等亦
之ヲ暁諭シテ去ラシム・・・

この時点では、篠原国幹も桐野利秋も「決起をやめさせる」側だったと明記されています。

篠原国幹

今は
その時ではない・・・

いずれにしても、生徒たちが西郷・篠原・桐野に「迫っていた」のが1876年の私学校の状況でした。

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