前回は「木戸の「西郷への憎悪」の新たな矛先〜大久保の要請即却下の思い・大久保「自分が辞職すれば政府は潰れる」・征韓論で破裂した西郷〜」の話でした。
「大周旋家」伊藤俊介の大技「木戸と大久保」究極調停案:元老院と大審院設立

1873年の明治六年の政変に続いて、翌年に木戸孝允が下野した明治政府。
| 出身・派閥 | 主な人物 |
| 薩摩 | 西郷隆盛、大久保利通、川路利良、村田新八、桐野利秋、篠原国幹 |
| 長州 | 木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文、井上馨 |
| 肥前 | 江藤新平、副島種臣、大木喬任、大隈重信 |
| 土佐 | 板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行 |
| 公家 | 岩倉具視、三条実美 |
| 旧幕府 | 勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介 |
いわば「ガラガラ」となってしまい、剛毅な大久保利通、岩倉具視も慌てたでしょう。
大久保利通自分の本来の政治上の考えは、
全く木戸君の識見及び知識に符合している。



従って、木戸君の驥尾についてやらなければ
ならぬと常に考えている。
要するに、「木戸には帰ってきてもらわなければ、どうしようもない」と言った大久保利通。


この頃の状況を、後年、伊藤博文は赤裸々に語っています。



なんとか、木戸さんには
戻って頂きたい!
若き伊藤博文は、「薩長両派閥の接着剤」のような存在でした。



大阪までは
行こう・・・
いわば、「東京と山口の中間」である大阪まで、木戸を引っ張ってきましたが、木戸は、



だが、やはり、
私は大久保が信用できんのだ・・・
木戸は、伊藤の提案を却下しました。



果たして、案の通り、
木戸公は聞き入れなかった。



それで、予は種々方策を考えてみたが、
木戸公の意に適うようなことを行わなければ、



ことは成り立たぬと思ったので、
先づ予は、



第一、政府の二三の者が集まって
権力を専らにせぬように、元老院を設立して、



立法上の仕事を丁重にし、且つ他日
国会をも起こすの準備をなさしむること。



第二、裁判の基礎を強固にするために
大審院を起こすこと。



第三、上下の民情を通じるために
地方官会議を起こすこと。



第四、主上も政治に御力を御注ぎになる様な仕組みに
するため、内閣を分離して、



木戸・大久保両公の如き人は内閣にあって、
一方には輔翼の事を為し、



別に第二流の人物を挙げて行政諸般の
責任に当たるしむること。
困った伊藤は、四つの案を生み出して、「究極の調停」を試みました。
「木戸+大久保調停」タイミング見計らう伊藤:改革案同意した大久保


仲良く徳川幕府を倒して、新政府を設立して6年から7年が経過しようとしていた1874年。
ここで、「6年から7年」と期間に範囲があるのは、「いつ、徳川幕府討幕か」は諸説あるからです。
徳川慶喜が江戸城を明け渡した時、あるいは、榎本武揚が五稜郭を明け渡した時、など。
「徳川幕府が倒れた時期」は、様々な解釈があります。
「箱館戦争」と呼ばれる、五稜郭の戦いが終了したのは1869年6月27日と言われています。
一般的には、明治元年の1868年を「討幕の年」としますが、「1869年」という解釈も成り立ちます。


いずれにしても、大きな内乱を経て、新たな統一政府を創立した明治維新の大物たち。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
ところが、1874年には「維新の四傑」のうち、半分の「二傑」が下野する事態になりました。
さらに、土佐と肥前の中核が下野してしまった明治新政府。
一、元老院設立
二、大審院設立
三、地方官会議設立
四、内閣分離:輔翼と行政
ここで、伊藤博文が挙げた提案のうち、「一と二」は重大な事でした。
新政府を設立して、大日本帝国憲法公布前であった当時。
この時に、新たに元老院という「目付役軍団」の設立を思い立った伊藤。
さらに、司法省を設立したにもかかわらず、別に大審院を設立しようとした伊藤。
いわば、政府の大改革案でした。





この四ヶ条を案出して、大阪の
五代才助の家で、大久保公と密かに会見した。



さて、聞くところによれば、木戸公は
動かぬということであるが、



無条件では
動くまい。



そこで、一つの案を
持ってきた。



木戸公に面会する前に、
まず貴君に相談したい。



貴君が同意なさるかどうか、それを確かめた
上で、木戸に面会しましょう。



と言って、今の
四ヶ条を見せた。



・・・・・



すると、
大久保公も、



至極もっともな意見だ。
自分は同意する。



独りこの事のみに止まらず、
自分は全て木戸君の驥尾についてやるつもりだから、



この事も能く含んでいて
貰いたい。



と、
言われるので、



それならよろしい。
貴君とは、まだ面会せぬつもりにしておこう。



と約して
別れた。
要するに、「木戸の政府カムバック同意への条件」に、どこまでも折れた大久保。



それから予は、わざと
木戸公を訪ねなかった。



そのうち公は、予の来たのを
聞いて、



伊藤のヤツ、
来たか。



と言った
そうだ。



この時、板垣は、岡本健三郎や小室信夫と
共に木戸公に会って、



例の立志社の民権論で、国会を
開かなければならぬ、ということを議論した。



井上も来て、一番先に木戸公と会って
議論をした。


討幕の時は、バリバリの軍事司令官だった板垣退助。
後年、板垣退助は、長い髭のある「大人物然」とした写真が有名です。
実は板垣の本質は、どこまでも軍人であり、持ち前の突破力を発揮し続けたのでした。



木戸さん、国会を
早く開くべきです!



・・・・・
「木戸が大阪にいる」と聞いて、多数の有力者が、木戸のもとに集まりました。



・・・・・
その中、伊藤博文は、じっくりとタイミングを見計らっていました。



いつ、どのように
木戸さんに会って・・・



何を、どのように
伝えるか、だ・・・
木戸と大久保を調停する「大技を出すタイミング」を。

