前回は「「巨大な政治家+最強官僚」だった大久保利通〜「大久保=圧制家は間違い」「立憲政体の先駆者」と断定した伊藤博文・広大で膨大な意見書〜」の話でした。
薩摩と長州両派閥を背景とした伊藤博文:明治初期に人材不足に陥った長州

1936年(昭和11年)7月20日に発売された、「伊藤公直話」という本には、伊藤博文の本音が満載です。
1909年、韓国で暗殺された伊藤博文は、幕末維新から明治の時代を駆け抜けました。

「伊藤公直話」は、「伊藤がいつ、語った話か?」は不明です。
内容を読むと、「回顧録的要素」が強いので、伊藤の晩年に近い時期と考えます。
具体的には、伊藤が首相を務めた後の50歳以降の話が多いと考えます。
| 名前 | 生年 | 松下村塾 |
| 吉田 松陰 | 1830 | ◯(指導者=先生) |
| 木戸 孝允(桂小五郎) | 1833 | – |
| 前原 一誠 | 1834 | ◯ |
| 入江 九一 | 1837 | ◯ |
| 山縣 狂介(有朋) | 1838 | △ |
| 高杉 晋作 | 1839 | ◯ |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | ◯ |
| 伊藤 博文(俊輔) | 1841 | ◯ |
| 吉田 稔麿 | 1841 | ◯ |
バリバリの松下村塾生である伊藤博文は、幕末の長州藩士の中では「超若手」でした。
幕末に暴発し続けた長州藩士たちは、次々と亡くなってしまいました。
久坂玄瑞・高杉晋作・吉田稔麿たちが、明治の時代を見ることなく、若くしてなくなりました。

久坂・吉田は自刃、高杉は病死でしたが「事実上の戦死」と考えて良いでしょう。
更に、長州藩士の総帥であった木戸孝允と前原一誠が極めて不仲となってしまいました。
そのため、長州藩出身の「長州人」が少数となってしまい、
木戸孝允我が長州人が
少なくなってしまった・・・
「人材豊富」だったはずの長州人は、一気に人材不足となりました。
ここで、、「木戸派」であった若手の伊藤博文の立場が急上昇しました。


更に、明治初期に明治政府で大きく力を伸ばした大久保利通に気に入られた伊藤博文。
伊藤は、薩摩・長州両方の派閥を背景とする、極めて強力な立場となりました。
内外多発の「民選議院設立」建白と揺れる明治政府:封建から立憲政体へ


明治維新最大の人物とされる、西郷隆盛に対して、伊藤の評価は、



とにかく大人物であったが、
むしろ創業の豪傑で・・・



守成の人では
ないようだった・・・
辛辣であり、ほとんど語っていません。
それに対して、伊藤にとって「政治の師匠」である大久保利通に対しては、



大久保公のその頃の態度というものは、
実に立派だった・・・



世間には大久保公を目して圧制家のように
思う者もあるようだが、それは甚だしい間違いである。



大久保公は早くより立憲政体を
主唱された有力な一人である。
「ベタ褒め」に近い語り口で、大久保利通を讃えている印象を感じます。



その頃、封建の制度を廃して、王政復古と
なってまだ間もない所へ・・・



今度は、憲法政治を持ってこようと
いうのであるから、具合がなかなか難しい。



勤王論と立憲政治との関係を明瞭ならしめる
ためには、憲法の力を待たなければならぬ。



大久保公の意見も、つまり君権を定めて、
民権を限るというにあった。


明治維新が成立した1868年は、まだまだ各地で戦乱が残っていました。
そのため、明治政府が安定したのは1870年頃から、となります。
そして、大日本帝国憲法発布は1889年であり、明治政府が安定してから20年ほど経過していました。
伊藤博文たちは、大日本帝国憲法制定に尽力し続けましたが、長い長い時間がかかりました。
伊藤によると、大日本帝国憲法制定に時間がかかった理由は、他にもありました。
「東アジア初の憲法」と言われた大日本帝国憲法。
日本自身にも中国にも経験がなかったため、「憲法の条文作成」の時間に大きな時間がかかりました。
その一方で、伊藤の話では「憲法の条文作成」より、民衆の動向も極めて重要でした。



予もこの事は軽々しくやっては
いかぬということを木戸公と論じた。



その後になって、明治七年、前に話した
民選議院の建白も出るし・・・



十四年には大隈伯の
建白も出た。





民選議院を
設立すべきである!
1873年の明治六年の政変では、先輩の江藤新平や副島種臣たちと袂を分けた大隈重信。
伊藤とも懇意であった大隈もまた、民選議院設立に動き出しました。
明治政府の内外で、「民選議院設立」の動きが強まる中、大久保・伊藤たちは奮闘しました。



・・・・・
まさに「大荒れ」だった明治初期の時代、大久保は持ち前の政治力で政府を切り回しました。

