前回は「巨大な「危難の際に局面を維持する力」と大久保利通〜革新時の分裂・「最も多難な指導」推進した大久保・次々勃発した外征と内乱〜」の話でした。
「巨大な政治家+最強官僚」だった大久保利通:広大で膨大な意見書

伊藤博文明治七年一月になって、先に征韓論の故に
辞職した副島・板垣などから・・・



民選議院を起せという
建白書が出た。
江戸時代の封建体制打破を目的に、討幕に人生賭けた明治維新の元勲たち。
明治六年の政変によって「二つに分裂」したものの、「江戸体制・封建体制の打破」は共通認識でした。



ところが、これよりも先に、これに類する
新制度の計画に就いて・・・



意見を持ったものが政府部内にも
あったのである。



木戸公は、明治六年七月帰朝すると間もなく、
欧米を巡視して得た新知見によって・・・



政規典則制定の議というものを
発唱された。



政規というのは、今で言えば、憲法の
ようなものであった。
岩倉使節団から帰ってきた木戸は、いち早く、



憲法を
制定するのだ!
「憲法制定」を声高に叫んでいた点は、流石の慧眼でした。



大久保公も大体同じような意見で、
明治六年九月、予は岩倉大使に付いて帰朝し・・・



制度調査のことを仰せつけられると、大久保大蔵卿は、
憲法制定に関する意見書を認めて送って寄越された。



その書面は殆ど一冊にもなろうとするほどの
浩瀚なもので・・・



その大要は今ここで文章に表すことはできぬが、
凡そこういうようなものであった。
「浩瀚」は、「書物・書類の内容が広大で膨大であること」を示します。
とにかく、岩倉使節団から帰ってきた大久保は、即座に「書籍並の大分量の意見書」を提出しました。



私の憲法制定に関する意見書は、
これです!
政治において、法令や政令が最も重要であり、明治政府は急速に様々な法令を制定しました。
ここで、法令や政令を「正確に文章化する力」は、政府において極めて重要です。
これらの「正確に文章化する」は、官僚に任せれば良く、政治家は「大筋を指示」という考えもあります。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
ここで「文章化する力」に関しては、西郷隆盛、岩倉具視は、大きく劣る存在でした。
木戸孝允も得意でしたが、緻密な思考にかけては、大久保利通が圧倒的な力を持っていました。
「書籍のような大分量の意見書」を、短期間にまとめた大久保。
大久保利通は、当時の明治政府において「巨大な政治家+最強官僚」のような存在でした。
「大久保=圧制家は間違い」「立憲政体の先駆者」と断定した伊藤博文





世の政体を議する者、
即ち曰く、君主政治、民主政治と。



民主政治、尚
未だ採るべからず。



君主政治亦た
棄つべからず。



それこの政体たるや、実に建国の大本、
為政の本源にして、至大至公のものたり。



その政体確立せざれば国何に依りて立たんや、
政治何に依りて為さんや。



維新以来、宇内を総覧し、四海万邦に
卓絶せんとす。



然るにその制や依然旧態を因襲し、君主専制の
体を存す。



この制宜しく
用ゆるべからず。



然らば即ち民主制と
なすべきか。



曰く
不可。



我国人民久しく封建の
圧制に慣れ、習性となること殆ど千年・・・



この風俗人情を以て俄かに
民主政治を用うべからず。



君主政治も亦
固守すべきにあらず。
「君主政治も民主政治もダメ」と切って捨てた大久保の論理は、非常に明快でした。



文章は長いけれども、
精神はほぼ右のようなもので、砕いて言えば・・・



憲法政治は、今俄かに実施する訳にはいかぬけれども、
つまりは、それにならなければならぬ。



憲法政治を施いて国を立てて行こうと云うには、
各国の政体を見ても、君主とか、民主とか、それぞれの形体がある。



けれども要するにその国、その時の人情風俗によって
基をたてたものである。



我が国に於いても、時勢・風俗・人情に
従って政体を建てなければならぬ。



僅かに藩制を廃して郡県となし、
政令一途に出ずる事になったが・・・



人民は久しく封建の圧政に慣れ、千年の久しき
これが習性となっているのであるから、



急激なる変動をこれに与うることは、
勿論国を保つ所以ではない。



しかし、将来期する所は、我が人情・風俗・時勢に従って、
立憲の基を建つる事でなければならぬ。
要するに「封建体制から脱却して、自由度が上がった民衆」のレベルの低さを鋭く指摘した大久保。
「封建の圧政に慣れ、これが習性」とは、民衆をかなり下に見ていたのが、政治家・大久保の視点でした。
一部省略しましたが、伊藤博文は「大久保の思い」を噛み砕いて伝えました。
これは、大久保の気持ちをよく知る伊藤だからこそ、出来る解釈だったっでしょう。



つまり、漸進主義の
立憲政治論であった。



世間には大久保公を目して圧制家のように
思う者もあるようだが、それは甚だしい間違いである。



大久保公は早くより立憲政体を
主唱された有力な一人である。
こう大久保を「立憲政体の先駆者」と規定した伊藤。
佐賀の乱、西南戦争をプロセスからは、どう考えても大久保は「圧制家」です。
その一方で、伊藤博文から見れば、大久保こそが「理想の政治家」だったのでしょう。

