本能寺の変 20〜信長の在京理由 2〜

前回は「本能寺の変 19〜信長の在京理由 1〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)

「織田家による天下統一が確実」となっていた1582年当時。

長篠の合戦で武田家が著しく弱体化したものの、武田勝頼は積極的攻勢に出ていました。

武田 勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信長を潰せ!

当時、武田家の前面で戦っていた徳川家康は、勝頼にさらに版図を広げられ、苦渋を飲んでいます。

徳川 家康(Wikipedia)

勝頼め!
くっそ〜!

長篠の合戦から、武田家滅亡まで「7年間信長が待った」説もあります。

それは、

放っておけば、
武田は弱体化する。

と「信長が考えていた」説です。

この説に対しては、

武田に痛撃を与えたから、
美濃や尾張へは攻め込んでこれない。

今のうちに、畿内を平定し、
本願寺を叩く!

と信長が考えていたと考えます。

実際、光秀に丹波攻めを指令したのは、「長篠の合戦後」です。

京に隣接する重要な国である丹波国すら、信長は掌握していなかったのです。

1580年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

そして、武田勝頼に対しては、

大いに叩いたから、
徳川単独でも、なんとか対応できるだろう!

と考えて、畿内周辺の統一を優先したのでしょう。

さらに、畿内掌握を進めることで、天皇・朝廷への大きな力を持ちます。

朝廷を意のままにしてみせよう。

信長は「武田家の弱体化を待っていた」のではなかったのでしょう。

「畿内の地盤強化」に加えて、「天皇・朝廷の掌握」を万全にする策でした。

その結果、正親町天皇に直訴し、「武田家の朝敵指定」を成功させた信長。

正親町天皇(Wikipedia)

事実上は、

正親町天皇に余が命じた!

のでしょう。

毛利家も「朝敵指定」すれば、多くの離反者が期待できます。

この「武田家朝敵指定」の事実を、小早川隆景らが掴んでいたかどうか、は微妙なところです。

小早川 隆景(Wikipedia)

なぜ、あんなにも早く
武田は滅亡したのだ?

頼みの身内まで裏切ったと
聞く・・・

信長が万全を期すならば、
我が毛利も同じことになるのでは・・・

小早川隆景は、この事態を恐れており、中国地方の国衆・国人を引き締めていました。

まずは、毛利を武田と同じように
短期間で潰す!

こう信長は考えていたのに違いない。

そして、「秀吉への援軍」よりも、「毛利の朝敵指定」と「三職推任」問題で、上洛したのでしょう。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次