前回は「本能寺の変当時の信長の「在京理由」〜超弱体化した強敵上杉・謀反成功の理由と信長の超合理的思考・「毛利家朝敵指定」の可能性〜|本能寺の変19・理由・エピソード・戦国時代の終焉」の話でした。
天皇と朝廷を掌握した織田信長:「長篠」後も猛烈に暴れ回った武田
「織田家による天下統一が確実」となっていた1582年より少し前。
長篠の合戦で武田家が著しく弱体化したものの、武田勝頼は積極的攻勢に出ていました。
信長を
潰せ!
当時、武田家の前面で戦っていた徳川家康は、勝頼にさらに版図を広げられ、大変な苦渋を飲んでいます。
勝頼め!
なぜ、こんなにも武田は強いのだ!
「武田四天王」のうち、馬場・内藤・山県の三名が戦死し、他にも多数の将兵が「消えてしまった」長篠の合戦。
もちろん、武田家にとっては「痛恨の打撃」でしたが、代わりに「信玄から勝頼へ」の代替わりが行われました。
山県や馬場が戦死したのは、
打撃ではあるが・・・
代わりに我が側近の
若手たちが活躍できる場が出来たのだ・・・
そして、信長の視線が「東から西へ向かった」こともあり、勝頼率いる武田軍は暴れまくりました。
最前線で武田と戦っていた徳川家は、領土を大きく蚕食されて、大変な打撃を受けました。
長篠の合戦から、武田家滅亡まで「7年間信長が待った」説もあります。
それは、
放っておけば、
武田は弱体化する。
と「信長が考えていた」説です。
この説に対しては、
武田に痛撃を与えたから、
美濃や尾張へは、そうそう攻め込んでこれない。
今のうちに、畿内を平定し、
本願寺を叩く!
と信長が考えていたのでしょう。
実際、光秀に丹波攻めを指令したのは「長篠の合戦後」です。
丹波を平定し、
京都周辺を固めるのだ!
京に隣接する重要な国である丹波国すら、信長は掌握していなかったのです。
そして、武田勝頼に対しては、
大いに叩いたから、
徳川単独でも、なんとか対応できるだろう!
と考えて、畿内周辺の統一を優先したのでしょう。
さらに、畿内掌握を進めることで、天皇・朝廷への大きな力を持ちます。
朝廷を
意のままにしてみせよう!
信長は「武田家の弱体化を待っていた」と同時に「武田家の弱体化を目論んでいた」のでしょう。
「畿内の地盤強化」に加えて、「天皇・朝廷の掌握」を万全を優先した信長。
光秀が丹波を攻略して、
京の周囲は全て織田家のものだ!
京と及び周辺を完全に押さえた織田家:武田家の「朝敵」指定
もはや、信長には
全く逆らうことが出来なくなった・・・
なんといっても、
近畿を全て握っておる・・・
正親町天皇と朝廷を完全に包囲した信長。
武田家を
朝敵にしてください!
うむ・・・
それはどうか・・・
その結果、正親町天皇に直訴し、「武田家の朝敵指定」を成功させた信長。
事実上は、
正親町天皇に
余が命じた!
信長が「天皇に指示した」ようなものだったでしょう。
そして、内心、正親町天皇は苦渋の決断だったでしょう。
上杉や北条なら
ともかく・・・
鎌倉以来の由緒正しい
甲斐守護の武田を朝敵にするとは・・・
その結果、「朝敵指定」された武田家は、あっという間に瓦解してしまいました。
いっそ、武田同様
大勢力の毛利も朝敵に!
毛利家も「朝敵指定」すれば、多くの離反者が期待できます。
この「武田家朝敵指定」の事実を、小早川隆景らが掴んでいたかどうか、は微妙なところです。
なぜ、あんなにも早く
武田は滅亡したのだ?
頼みの身内まで裏切ったと
聞く・・・
信長が万全を期すならば、
我が毛利も同じことになるのでは・・・
小早川隆景は、この事態を恐れており、中国地方の国衆・国人を引き締めていました。
皆のもの、
我が毛利と一緒に生きてゆこうぞ!
それに対して、信長は、
余も、もうすぐ
50歳だ・・・
まずは、毛利を武田と同じように
短期間で潰す!
「もうすぐ節目の50歳」と考えていたでしょう。
本能寺の変の頃、毛利内部には織田家からの猛烈な調略により、「かなり動揺していた」という話があります。
本能寺の変直後に、羽柴秀吉が安国寺恵瓊に対して、
毛利家中の内応者は、
こんなにおりますぞ!
と「脅した」話がありますが、これも誇張されている可能性が高いと思います。
大胆ながらも、万全に万全を期す慎重な面もあった信長。
そして、毛利攻めを「短期間に、そして織田の被害が少なくする」終わらせたかったでしょう。
「毛利を朝敵」にするのが、もっとも有効な戦略でありました。
「秀吉への援軍」よりも、「毛利の朝敵指定」と「三職推任」問題で、信長は当時「上洛していた」のでしょう。
そして、この時、
日の本を統一したら、
どのような国家にするか・・・
「日本全土」を見つめていた信長にとって、「完全な想定外」が本能寺の変でした。
次回は上記リンクです。