前回は「本能寺の変 16〜備中・細川藤孝・室町幕府の影響力〜」の話でした。

備中への援軍

光秀よ!
猿の援軍へ向かえ!
備中の羽柴秀吉軍への「援軍として出陣」を指示されたと言われる光秀。





ははっ!
中国地方とは縁が薄い光秀ですが、



いよいよ
毛利と決戦か!
大いに勇んだでしょう。


丹波平定を完了した頃に、光秀は佐久間信盛の追放に伴い、佐久間軍団の大部分を寄騎として預けます。
いわば強力な明智軍団誕生ともいえます。
近江・丹波に加え、南の大和を加えると、完全に京を囲みます。



日本の首都・京都を
守るのは・・・



我が明智家だ!



織田家では、
私が最も重用されている!
織田信忠と尾張・美濃:対武田戦
この頃、信長の後継者としての地位を着実に固めつつあった嫡男・織田信忠。


本能寺の変と同年に武田家を滅ぼした際は、織田家の総大将を務めました。
実質の総大将は滝川一益でしたが、織田信忠は相応の能力を有する人物でした。
本来であれば、京を囲む領土は、嫡男の織田信忠に任せるべきであったかもしれません。



信忠は、
それなりの人物に育った・・・



余の後継者としては、
まず申し分なしだ・・・
この頃、信長のかつての拠点であった尾張・美濃を領有して、東の武田家を討滅した信忠。
信忠を「尾張・美濃に配した」理由は、対武田ということもあったでしょう。
そして、信長も人の子ですから、



私の故郷の尾張、
そして第二の故郷の美濃・・・



非常に豊かな国であり、
余の故郷である国を任せるのは、長男だ・・・
こういう思いがあったのでしょう。
そして、京を囲むように領土を持つ明智光秀とその寄騎たち。
これほどの強力な立場を、光秀に任せた信長。


よほど信長は、光秀を信頼していたのでしょう。
1582年時点ならば、山城周辺は織田家直轄地にしても良かったように思います。
信忠は岐阜・尾張中心としても、他の子供たちなど一族に任せてもよかったと思います。


興福寺を背景とする筒井順慶
興福寺の影響力が非常に強い大和は、興福寺にゆかりのある筒井に任せたのは合理的でした。


興福寺の有力宗徒が武士化して、戦国大名となった筒井家。
一時は、松永久秀に大和を追われます。





大和は、
松永のものだ!



くっそ〜!
松永に、してやられた!
その後、信長に降った松永は謀反を企みます。
一度目は許されたものの、二度目は信長に完全包囲され、最後は爆死しました。



大和は興福寺ゆかりの
筒井が良いかと。



そうせい!
その後、筒井順慶が大和国主として返り咲いたのは、光秀の口利きが理由でした。



光秀殿のおかげで、
大和国主に返り咲いた・・・



光秀殿には
一生恩に着なければ・・・
その筒井が明智の寄騎となるのは「自然の成り行き」でもありました。
そして、興福寺という奈良の大寺を背景にする筒井順慶。
日本古来の仏教のパワーを背景とする、大きなパワーを潜在的に持つ人物だったのでした。