前回は「織田信長と明智光秀の最先端築城術〜安土城と亀山城・鉄砲隊の代名詞「鉄砲の明智」・鉄砲の名手だった明智光秀・羽柴秀吉と明智光秀の「最強コンビ」〜」の話でした。
対浅井・朝倉戦に奔走した明智光秀
光秀が、まだ足利義昭にも仕えていた頃の話です。
近江で、織田家が「浅井氏と鋭く対立した最前線」を光秀は担います。
越前に加え若狭を併呑し、90万石ほどの領土を有した朝倉義景。
元々朝倉家は越前の名門で越前守護代であったため、家柄は信長の織田家の上です。
信長
ごときが・・・
我が朝倉家は
織田家より上なのだ!
対織田戦では、不手際を重ね続け続けた朝倉義景。
共に「信長包囲網」を形成する中、朝倉軍は陣を払って、越前に帰国してしまいました。
ついには、同盟軍であった武田信玄すらキレさせてしまいます。
おい、朝倉義景よ!
何やってんだ!
一緒に信長を
包囲しているのに、勝手に帰るな!
朝倉の奴は一体、
何考えているんだ?
ちょっと早く
帰国したかったので・・・
「暗愚」とも言われる朝倉義景。
一向一揆に手を焼きながらも、大国を維持するだけの器量はありました。
加えて、若いながら戦闘能力抜群の浅井長政。
浅井・朝倉で合わせて120万石ほどの領土を有していました。
そのため、浅井・朝倉合計で動員兵力は30,000人ほどあり、かなり強力な軍隊でした。
所領はそれほど大きくないが、
我が軍勢は精鋭だぞ!
そして、私は軍事的才能が高く、
我が家臣にも軍事力が高いものがたくさんいる!
明智光秀叛逆と国替え説:光秀の夢が詰まった「坂本城」
当時強敵であった、浅井・朝倉との戦いは熾烈を極めました。
さらに日本古来の精神の柱であった延暦寺を焼き討ちする際に、明智光秀は
上様!
お考え直しを!
と「織田信長を諫めた」という説もありますが、この話はどうやら虚構です。
実際の明智光秀は、
ゆけ!ゆけ!
延暦寺を焼き尽くせ!
延暦寺焼き討ちの急先鋒を果たす「織田家の切込隊長」を果たしました。
その苦心惨憺の果てに、やっともらった所領であった坂本城。
坂本城には光秀は、格別に大きな愛着があったでしょう。
坂本城は光秀の縄張りで設計され、光秀の夢が込められた城でした。
信長が光秀に対して「近江・丹波を召し上げて、出雲・石見へ領地替えを命じられていた」説もあります。
長年、光秀が慈しんできた近江を取り上げて「まだ毛利領の出雲・石見への転封」は考えにくいです。
現実的であった信長が、この時点では「このような命令をした」のは考えにくいでしょう。
明智家弱体化の本質:最も損をする信長
光秀や明智家を弱体化させて、一番損するのは誰か?
この時点ではそ、他ならぬ信長本人です。
余は、
合理的なことが最も好きだ。
損する戦略は、
出来るだけ避ける!
将来、惟任日向守である光秀に九州へ侵攻させる際、丹波や近江では遠すぎます。
兵站線等をまとめるために、「一時的に出雲・石見あたりを知行させる」可能性はあったでしょう。
「一時的」であれば、
出雲・石見もやぶさかではないが・・・
「難治の国」丹波を光秀が攻略し、丹波を光秀に与えた信長。
数年もせずに光秀から丹波を取り上げては、混乱するのは明智家だけではありません。
仮に、丹波から明智をどかして、信長の有力家臣を入れたとしても、
明智が我が
丹波を蹂躙したと思ったら・・・
今度は、
違うのが国主かよ!
こんな奴に従いたくないから、
反乱起こそうぜ!
まだ平定間もなく、丹波の赤井・波多野を潰したとはいえ、反乱が起こる可能性があります。
晩年、神を目指した信長。
我は
第六天魔王なり!
「天下統一が見えてきた」とは言え、まだまだ光秀の出番は多いはずです。
やはり、私は京周辺で
必要なのでは?
キンカン頭には、
京付近にいてもらわねばな!
その中、明智家の根幹を潰すようなことを信長はしないでしょう。