前回は「わざわざ主人を殺害に向かった光秀〜特異すぎる本能寺の変・最大受益者である羽柴秀吉・謀反続発の織田家・松永久秀と荒木村重〜」の話でした。
明智光秀は「なぜ裏切った」のか:坂本城と亀山城の位置
今回は、明智光秀の居城と所領を考えます。
光秀の最初の居城である、坂本城の位置を考えてみましょう。
この地図は、「家康の饗応役」であった光秀が任を解かれた後の足取りを説明しています。
四国の長曾我部氏と織田家の合戦が、開始する直前であった当時。
長曾我部元親の妻と明智光秀の重臣 斎藤利三の親族関係から、「当時の光秀の地位低下」という説があります。
長曾我部の件は「光秀裏切り」の一つの理由かもしれませんが、「光秀の地位低下」は「なかった」と考えます。
桶狭間の戦い直後から、22年にわたり「織田家と堅実な同盟関係」を保ってきた徳川家康。
「裏切り」が日常茶飯事の当時は、稀有なことでした。
それにも関わらず、緊張関係になったことはあるとはいえ、22年も続いた「異色の同盟」でした。
安土に
参りました!
武田討滅の後は、家康は「信長から駿河を拝領した」立場でした。
駿河拝領の
御礼です!
いわば、「信長の家臣同然」であった徳川家康でしたが、そうは言っても独立大名だった家康。
そして、信長にとっては、「掛け替えのない大事な存在」であった家康。
その家康を饗応する役目は、織田家の重要人物でなければならず、さらに故事姑息に通じた光秀はうってつけでした。
光秀に
家康の饗応役を命ずる!
はは〜!
私に全てお任せを!
ところが、羽柴秀吉の対毛利線が風雲急を告げ、
光秀は
猿(秀吉)の援軍へゆけ!
はは〜!
すぐに向かいます!
光秀は急遽解任されましたが、「超独裁の信長」の織田家では、この程度のことはよくありました。
「光秀が失意に落ちた」説もありますが、「秀吉の下」というよりも「信長の代理」だったのでしょう。
上の地図からは、坂本城・安土城・京都の位置関係がよく分かります。
坂本城は京都のすぐ近くで、直線距離で安土城と京都の距離の1/3くらいです。
光秀に
中央を固めさせよう。
信長が、いかに光秀に期待していたのか、が良くわかります。
際立って豊かな近江国と物流の一大拠点・坂本城
当時、商業がとても盛んで有名な鉄砲の生産地の「国友村」があった近江国。
さらに豊穣な土地からは多くの米が産出されました。
石高は事実上1位(奥羽は広大なので除外)であり、農業にも商業にも恵まれた地であった近江国。
羽柴秀吉の最初の居城の長浜城も、近江にあります。
長浜城は琵琶湖の北に位置し、京都からはそれほど近くありません。
なんで、光秀の坂本城は、
あんなに京に近いのだ・・・
なぜ、
なぜなのだ・・・
琵琶湖の水運を非常に重視していた信長。
安土城・坂本城・長浜城・大溝城の四つの城で「琵琶湖ネットワーク」が作られていた説が有力です。
日本海からの物流の大動脈であった琵琶湖の水運を考える時、
我が坂本城は、琵琶湖を囲む諸城の中で
京に最も近い!
「京からすぐ近く」の坂本城の重要性は際立っていました。
近畿管領格となった明智光秀
光秀・秀吉の最初の居城・坂本城は「対朝倉・浅井」が、主眼であった時であった経緯があります。
それを考えても、素晴らしい立地、そして大きな価値のある城を「織田家で最初」に拝領した明智光秀。
上様は、この光秀を買って
くださっている・・・
いかに、織田信長に重宝されていたか分かります。
この坂本城を光秀が信長から拝領したときは、光秀は第十五代足利将軍 足利義昭の家臣でもありました。
この頃は、すでに足利義昭と織田信長の間には軋みが生じていましたが、
光秀よ、
なんとか余の言うことを信長に伝えてくれ!
はっ!
承知いたしました!
足利・織田両属であった光秀は、この立場だけでも非常に重きをなしていました。
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・滝川一益たち宿老級の武将でも、「特異な立場」にいた光秀。
対浅井・朝倉以降、重視され続けた光秀の織田家における立場。
それは、全く下がることがなく「上がる一方」だったのでした。
そして、光秀の立場・地位は上昇気流に乗り続けます。
織田家の中央を占め、
中心となるのだ!
なんで、我々譜代の家臣が、
地方遠征にいっているのに・・・
新参者の光秀が
中央なんだ!
そして、本能寺の変の頃に至るまで、光秀の織田家における立場は上がり続けたのでした。
私が近畿管領となり、
京・山城を守るのだ・・・
そして、朝廷・幕府に、もっとも
相性が良いのは私だ・・・
全員が卓抜たる能力を有していた織田四天王。
四名全員が、軍事・政治・知謀などにおいて、多彩で別格に高い能力を持っていました。
その中で、「光秀しか持っていないもの」が、たくさんあったのもまた事実だったのです。
本能寺の変当時、明智光秀及び寄騎の領土配置を考える時、
私が、日の本の中心である
近畿を守るのだ・・・
光秀が「近畿管領格」であったのは間違いないでしょう。
日本の中心・重臣であった京をグルッと囲むように、明智光秀一党の領土があるのは、ある意味で異常なことでした。
これで、摂津を加えれば、「丸ごと京が囲まれる」状況になります。
この頃、摂津は荒木村重の謀反・脱落により、中川清秀・高山右近などの小大名が乱立する状況でした。
この意味では、この頃の摂津は「メイン武将不在」の国であったため、周辺の光秀の影響力は強かったでしょう。
私が織田家の
中心なのだ!
こう考えていたに違いない明智光秀。
そして、これほど強力な力を持っているからこそ、
私が上様(信長)にとって代わり、
新たな世をつくるのだ!
「新たな世を自分が作る」と思い至ったのでしょう。
次回は上記リンクです。