明智光秀は「なぜ裏切った」のか〜近畿管領格となった明智光秀・坂本城と亀山城の位置・際立って豊かな近江国と物流の一大拠点坂本城〜|本能寺の変7・戦国時代の終焉

前回は「わざわざ主人を殺害に向かった光秀〜特異すぎる本能寺の変・最大受益者である羽柴秀吉・謀反続発の織田家・松永久秀と荒木村重〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)
目次

明智光秀は「なぜ裏切った」のか:坂本城と亀山城の位置

坂本城と安土城と京都(歴史道13号 朝日新聞出版)

今回は、明智光秀の居城と所領を考えます。

光秀の最初の居城である、坂本城の位置を考えてみましょう。

この地図は、「家康の饗応役」であった光秀が任を解かれた後の足取りを説明しています。

四国の長曾我部氏と織田家の合戦が始まる直前であった当時。

長曾我部元親の妻と明智光秀の重臣 斎藤利三の親族関係から、「当時の光秀の地位低下」という説があります。

長曾我部の件は「光秀裏切り」の一つの理由かもしれませんが、「光秀の地位低下」は「なかった」と考えます。

新歴史紀行
戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

桶狭間の戦い直後から、22年にわたり「織田家と堅実な同盟関係」を保ってきた徳川家康。

「裏切り」が日常茶飯事の当時は、稀有なことでした。

それにも関わらず、緊張関係になったことはあるとはいえ、22年も続いた「異色の同盟」でした。

安土に
参りました!

武田討滅の後は、家康は「信長から駿河を拝領した」立場でした。

いわば、「信長の家臣同然」であった徳川家康でしたが、そうは言っても独立大名です。

そして、信長にとっては、「掛け替えのない大事な存在」であった家康。

その家康を饗応する役目は、織田家の重要人物でなければならず、さらに故事姑息に通じた光秀はうってつけでした。

光秀に
家康の饗応役を命ずる!

はは〜!
私に全てお任せを!

ところが、羽柴秀吉の対毛利線が風雲急を告げ、

光秀は
猿(秀吉)の援軍へゆけ!

はは〜!
すぐに向かいます!

光秀は急遽解任されましたが、「超独裁の信長」の織田家では、この程度のことはよくありました。

「光秀が失意に落ちた」説もありますが、「秀吉の下」というよりも「信長の代理」だったのでしょう。

上の地図からは、坂本城・安土城・京都の位置関係がよく分かります。

坂本城は京都のすぐ近くで、直線距離で安土城と京都の距離の1/3くらいです。

光秀に
中央を固めさせよう。

信長がいかに光秀に期待していたのか、が良くわかります。

際立って豊かな近江国と物流の一大拠点・坂本城

戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

当時、商業がとても盛んで有名な鉄砲の生産地の「国友村」があった近江国。

さらに豊穣な土地からは多くの米が産出されました。

石高は事実上1位(奥羽は広大なので除外)であり、農業にも商業にも恵まれた地であった近江国。

坂本城のイメージ(歴史人2020年7月号 KKベストセラーズ)

羽柴秀吉の最初の居城の長浜城も、近江にあります。

長浜城は琵琶湖の北に位置し、京都からはそれほど近くありません。

なんで、光秀の坂本城は、
あんなに京に近いのだ・・・

なぜ、
なぜなのだ・・・

琵琶湖ネットワーク(別冊歴史人2016年12月号ベストセラーズ)

琵琶湖の水運を非常に重視していた信長。

安土城・坂本城・長浜城・大溝城の四つの城で「琵琶湖ネットワーク」が作られていた説が有力です。

日本海からの物流の大動脈であった琵琶湖の水運を考える時、「京からすぐ近く」の坂本城の重要性は際立っていました。

近畿管領格となった明智光秀

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

光秀・秀吉の最初の居城・坂本城は「対朝倉・浅井」が、主眼であった時であった経緯があります。

それを考えても、素晴らしい立地、そして大きな価値のある城を「織田家で最初」に拝領した明智光秀。

上様は、この光秀を買って
くださっている・・・

いかに、織田信長に重宝されていたか分かります。

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第十五代足利将軍 足利義昭(Wikipedia)

この坂本城を光秀が信長から拝領したときは、光秀は第十五代足利将軍 足利義昭の家臣でもありました。

この頃は、すでに足利義昭と織田信長の間には軋みが生じていましたが、

光秀よ、
なんとか余の言うことを信長に伝えてくれ!

はっ!
承知いたしました!

足利・織田両属であった光秀は、この立場だけでも非常に重きをなしていました。

柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・滝川一益たち宿老級の武将でも、「特異な立場」にいた光秀。

対浅井・朝倉以降、重視され続けた光秀の織田家における立場。

それは、全く下がることがなく上がる一方だったのでした。

そして、光秀の立場・地位は上昇気流に乗り続けます。

織田家の中央を占め、
中心となるのだ!

なんで、我々譜代の家臣が、
地方遠征にいっているのに・・・

新参者の光秀が
中央なんだ!

そして、本能寺の変の頃に至るまで、光秀の織田家における立場は上がり続けたのでした。

私が近畿管領となり、
京・山城を守るのだ・・・

そして、朝廷・幕府に、もっとも
相性が良いのは私だ・・・

織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(Wikipedia)

全員が卓抜たる能力を有していた織田四天王。

四名全員が、軍事・政治・知謀など多彩な能力を持っていました。

その中で、「光秀しか持っていないもの」が、たくさんあったのもまた事実だったのです。

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丹波平定後の光秀の領地(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

本能寺の変当時、明智光秀及び寄騎の領土配置を考える時、光秀が「近畿管領格」であったのは間違いないでしょう。

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京・山城中心の日本(新歴史紀行)

日本の中心・重臣であった京をグルッと囲むように、明智光秀一党の領土があるのは、ある意味で異常なことでした。

これで、摂津を加えれば、「丸ごと京が囲まれる」状況になります。

この頃、摂津は荒木村重の謀反・脱落により、中川清秀・高山右近などの小大名が乱立する状況でした。

この意味では、この頃の摂津は「メイン武将不在」の国であったため、周辺の光秀の影響力は強かったでしょう。

私が織田家の
中心なのだ!

こう考えていたに違いない明智光秀。

そして、これほど強力な力を持っているからこそ、

私が上様(信長)にとって代わり、
新たな世をつくるのだ!

と思い至ったのでしょう。

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