本能寺の変 8〜光秀の立場 2〜|織田信長と明智光秀

前回は「本能寺の変 7〜光秀の立場 1〜」でした。

坂本城を拠点にし、京周辺の軍事を預かる立場となった光秀。

その後かなりの時間をかけ、苦労しながら山城国(京都)の北西に位置する丹波国を攻略します。

そして、信長から丹波一国を拝領されます。

光秀 丹波攻略(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

そして、丹波から坂本城を勢力圏とし、細川(長岡)藤孝や筒井順慶を与力とした大軍団を率います。

丹波攻略は、非常な苦労をした。

近江坂本に加え、丹波を与えられた。

細川藤孝(Wikipedia)

京を東西から挟む、超重要な地を、
信長様から任されたのだ!

言わば「近畿管領」のような立場で、織田政権最盛期を支えます。

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

京・山城が日本の中心であることを考えると、明智光秀は正に「織田家の中心」に位置していたのです。

本能寺の変直前、宿老であり光秀にとっては上役である滝川一益が、信長の命令で上野国に入ります。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

「関東管領」的立場で上野に入国した滝川一益でしたが、関東はいわば僻地。

滝川自身は全く望んでいませんでした。

なぜ、こんな田舎に飛ばされなければ
ならないのか・・・

この滝川一益の国替えが、織田家臣団に衝撃を与えます。

将来、柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀らの宿老に対しても同様な国替が見込まれたのです。

私は越中から越後方面を任されるのかな?

それはそれで、北陸王となってやろう!

そのの「前触れ」であると光秀は感じたかもしれません。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

いくつかの書籍で「信長は宿老含め抜本的な国替を想定していた」という主張があります。

丹羽長秀などの宿老は、全て遠方へ飛ばされ、「織田一族・近習が近畿周辺を領する方向」という説です。

今は、近畿を押さえる立場だが、
将来は、どこかに領土を変えられるかも知れぬ。

私は信長様の子 秀勝を養子にしているから、
安泰だ。

与えられた九州名族の姓「惟任」の意味は何か?

九州侵攻の方便だけではなく、明智家の領地を、
九州へ移されるかもしれぬ。・・・

実際に信長はどのように考えていたのでしょうか。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

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