前回は「明智光秀は「なぜ裏切った」のか〜近畿管領格となった明智光秀・坂本城と亀山城の位置・際立って豊かな近江国と物流の一大拠点坂本城〜」の話でした。
足利と織田の取次から京周辺の権力を握った光秀
坂本城を拠点にし、京周辺の軍事を預かる立場となった光秀。
私が織田家の京周辺を
守るのだ!
もともとは将軍となる前から足利義昭の家臣であった明智光秀。
信長と余の間をうまく
取りなしてもらいたい・・・
1568年に足利義昭を奉じて「中世の足利パワー」で上洛を果たした信長。
前年の1567年に美濃を制圧して美濃・尾張を領する大大名となった織田家でした。
それでも、当時は「大大名の一人」に過ぎず、同程度の大大名は武田・毛利・北条・大友などいました。
足利家を奉じて上洛したが、
大したパワーだのう・・・
この「中世の権化」とも言える足利パワーで、一気に天下取りの先頭に立ったのが信長でした。
ところが、その後すぐに信長・義昭の間には不和が生じてしまい、結局5年後の1573年、
義昭よ、
いい加減にせよ!
ついに、
京都から叩き出されてしまった・・・
信長は足利義昭を京から追放し、室町幕府は「事実上瓦解」しました。
とは言っても、足利義昭は「第十五代足利将軍のまま」であり、世は不安定な状況が続きました。
「足利と織田の取次」であり、京周辺にいることが多かった光秀は、そのまま京周辺の権力を握りました。
「裏切った」明智光秀と丹波:初めての一国受領
その後かなりの時間をかけ、苦労しながら山城国(京都)の北西に位置する丹波国を攻略します。
やっと
丹波を制圧した・・・
実際、丹波制圧には大変てこづった光秀。
一度は、順調に行っていたはずが波多野氏の裏切りによって、明智軍が撃退される事態に発展しました。
あの時は、ショックで
病気になってしまった・・・
あまりのショックに、光秀は病気になり、しばらくは軍事作戦ができない状況に追い込まれました。
とにかく、京の隣国で
重要な丹波を支配下にしたぞ!
そして、信長から丹波一国を拝領されます。
光秀よ。
約束通り、丹波をやろう・・・
ははっ!
有難き幸せ!
それまでは、一国一城の主人といえども、坂本城5万石であった光秀。
一気に丹波29万石を加え、5万石から34万石の大大名に出世しました。
そして、丹波から坂本城を勢力圏とし、細川(長岡)藤孝や筒井順慶を与力とした大軍団を率います。
丹波攻略は、
非常な苦労をした。
近江坂本に加え、
丹波を与えられた・・・
もともと光秀の上司であった細川藤孝は、光秀の寄騎として丹波平定に協力しました。
丹波は元は
我が細川の領土でしたから・・・
私が丹波の国衆に
従うように働きかけましょう・・・
政治力に優れ、名家出身の細川藤孝は、光秀の元で大きな働きをしました。
旧幕臣たちを多く明智家に取り込み、さらに足利幕府家臣の中で最後の巨頭であった細川藤孝。
伊勢貞興たち幕臣に加え、細川藤孝を寄騎とした明智家は、「室町幕府のパワー」を継承する強い存在となりました。
これで、足利家が持っていた
政治力を明智家が継承した・・・
京を東西から挟む、超重要な地を、
信長様から任されたのだ!
言わば「近畿管領」のような立場で、織田政権最盛期を支えます。
織田家の中心であった光秀:九州への国替えの脅威
京・山城が日本の中心であることを考えると、明智光秀は正に「織田家の中心」に位置していたのです。
織田四天王すら「光秀中心の同心円上にある存在」と言っても、過言ではありません。
本来「円の中心にいるべき」信長。
朝廷・前将軍との
関係をどうするか・・・
領土拡大は、光秀や秀吉に
任せておけば良い。
信長の視線は、「全国統一後の日本」に向いていました。
本能寺の変直前、宿老であり光秀にとっては上役である滝川一益が、信長の命令で上野国に入ります。
「関東管領」的立場で上野に入国した滝川一益でしたが、関東はいわば僻地。
滝川自身は、全く望んでいませんでした。
なぜ、こんな田舎に飛ばされなければ
ならないのか・・・
この滝川一益の国替えが、織田家臣団に衝撃を与えます。
将来、柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀らの宿老に対しても同様な国替が見込まれたのです。
ワシは越中から
越後方面を任されるのかな・・・
それはそれで、
北陸王となってやろう!
その「前触れ」であると光秀は感じたかもしれません。
いくつかの書籍で「信長は宿老含め抜本的な国替を想定していた」という主張があります。
まさか、この明智光秀までも
国替えされるのか・・・
丹羽長秀などの宿老は、全て遠方へ飛ばされ、「織田一族・近習が近畿周辺を領する方向」という説です。
今は、近畿を押さえる立場だが、
将来は、どこかに領土を変えられるかも知れぬ。
私は信長様の
子 秀勝を養子にしているから、安泰だ。
与えられた
九州名族の姓「惟任」の意味は何か?
九州侵攻の方便だけではなく、明智家の領地を、
九州へ移されるかもしれぬ・・・
それは、
絶対に困る・・・
実際、信長はどのように考えていたのでしょうか。
それは分かりませんが、九州名族の姓「惟任」を光秀に与えたのは、
当然、光秀は九州侵攻の
中心だ・・・
ということだったでしょう。
実際、当時の書物では光秀のことを「惟日=惟任日向守」と略している記録が多数残っています。
この意味では「明智」というより「惟任」と認識されていた光秀。
九州征伐の中心となるのは、
薮坂ではないが・・・
九州に所領を移されるのは、
断じて拒否したい・・・
だが、信長様は一度決めたら
変えない方・・・
秀吉のように20歳頃から信長に仕え「信長の全てを知る」ほどでなくても、光秀には信長の性格は分かっていました。
もし、信長様が明智家の所領を
変えるつもりなら・・・
思い切った決断が必要かも
しれぬ・・・
光秀の所領に対する不安は、「裏切りの理由」の大きな要因の一つであったでしょう。
次回は上記リンクです。