前回は「本能寺の変 7〜光秀の立場・近畿管領・坂本城・亀山城・光秀と信長の関係〜」でした。

丹波と明智光秀
坂本城を拠点にし、京周辺の軍事を預かる立場となった光秀。
その後かなりの時間をかけ、苦労しながら山城国(京都)の北西に位置する丹波国を攻略します。
そして、信長から丹波一国を拝領されます。

光秀よ。
約束通り、丹波をやろう・・・



ははっ!
有難き幸せ!


そして、丹波から坂本城を勢力圏とし、細川(長岡)藤孝や筒井順慶を与力とした大軍団を率います。



丹波攻略は、
非常な苦労をした。



近江坂本に加え、
丹波を与えられた。





京を東西から挟む、超重要な地を、
信長様から任されたのだ!
言わば「近畿管領」のような立場で、織田政権最盛期を支えます。


織田家の中心:明智光秀
京・山城が日本の中心であることを考えると、明智光秀は正に「織田家の中心」に位置していたのです。


織田四天王すら「光秀中心の同心円上にある存在」と言っても、過言ではありません。
本来「円の中心にいるべき」信長。



朝廷・前将軍との
関係をどうするか・・・



領土拡大は、光秀や秀吉に
任せておけば良い。
信長の視線は、「全国統一後の日本」に向いていました。
本能寺の変直前、宿老であり光秀にとっては上役である滝川一益が、信長の命令で上野国に入ります。


「関東管領」的立場で上野に入国した滝川一益でしたが、関東はいわば僻地。
滝川自身は、全く望んでいませんでした。



なぜ、こんな田舎に飛ばされなければ
ならないのか・・・
この滝川一益の国替えが、織田家臣団に衝撃を与えます。
将来、柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀らの宿老に対しても同様な国替が見込まれたのです。



ワシは越中から
越後方面を任されるのかな・・・



それはそれで、
北陸王となってやろう!
そのの「前触れ」であると光秀は感じたかもしれません。


いくつかの書籍で「信長は宿老含め抜本的な国替を想定していた」という主張があります。
丹羽長秀などの宿老は、全て遠方へ飛ばされ、「織田一族・近習が近畿周辺を領する方向」という説です。



今は、近畿を押さえる立場だが、
将来は、どこかに領土を変えられるかも知れぬ。



私は信長様の
子 秀勝を養子にしているから、安泰だ。



与えられた
九州名族の姓「惟任」の意味は何か?



九州侵攻の方便だけではなく、明智家の領地を、
九州へ移されるかもしれぬ。・・・



それは、
絶対に困る・・・
実際、信長はどのように考えていたのでしょうか。

