前回は「本能寺の変 4〜中央で統括する光秀・前将軍足利義昭と光秀〜」の話でした。

本能寺の変当時の織田家の組織
司馬遼太郎氏は「国盗り物語」などにおいて、本能寺の変直前において光秀の立場の描写があります。

本書で司馬は、本能寺の変時点の織田家において

織田信長にとって、
有用な人材は



一に羽柴秀吉、二に明智光秀、
三に柴田勝家・・・
と描写しています。
実際は「一に抜群に明智光秀、次いで羽柴秀吉、柴田勝家・・・」であったと考えます。


本能寺の変の時の光秀の年齢は55歳、67歳など諸説あります。
本能寺の変勃発時、織田信長の年齢が49歳です。


信長に仕官し始めた(当時は足利義昭と両属体制)のは本能寺の変の15年前の1567年。
本能寺の変勃発時、「光秀が55歳であった」説が最も合理的と考えます。
当時出世を争っていた47歳の秀吉よりも8歳上です。


そして、最長老ともいうべき柴田勝家は60歳でしたから、光秀は5歳若いです。
若いと言っても、当時の55歳は現代の感覚では65〜70歳ですから、大宿老です。


重きをなしていた当時57歳の滝川一益。
一益に対しては、尊大な印象なある信長が、「結構気を遣っていた」という説もあります。



一益よ。
大丈夫か?
織田信長と有力家臣団の年齢
絶対君主のように描かれる信長。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
柴田勝家 | 1522年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
明智光秀 | 1528年 |
滝川一益 | 1525年 |
現実的には、家臣団、特に年長の家臣に対しては相応に接していたのでしょう。


信長・四天王をはじめとする織田軍団が猛烈な勢いで、日本を制圧しようとしていました。
1567年に稲葉山城(岐阜城)を陥落させ、15年の月日が経過していました。



ワシも
もうすぐ50歳か・・・



敦盛「人生50年 下天のごとく・・・」
と歌っていたが・・・



50歳になるのか・・・
信長・四天王が相応の年齢となり、天下統一が目前となりました。



猛烈な勢いで人生を
駆け抜けてきたが・・・



いよいよ、余が
もうすぐ「日の本の国」の主か・・・
信長が、そんなふうに考えていた時に起こった異常事態。
その「まさかの事態」が、本能寺の変だったのです。

