本能寺の変 5〜光秀の実年齢〜|織田信長と明智光秀

前回は「本能寺の変 4〜中央で統括する光秀〜」の話でした。

司馬遼太郎氏は「国盗り物語」などにおいて、本能寺の変直前において光秀の立場の描写があります。

作家 司馬 遼太郎(司馬遼太郎の戦国 朝日新聞出版)

本書で司馬は、本能寺の変時点の織田家において

織田信長にとって、
有用な人材は

一に羽柴秀吉、二に明智光秀、
三に柴田勝家・・・

と描写しています。

実際は「一に抜群に明智光秀、次いで羽柴秀吉、柴田勝家・・・」であったと考えます。

織田四天王

本能寺の変の時の光秀の年齢は55歳、67歳など諸説あります。

本能寺の変勃発時の織田信長の年齢が49歳です。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信長に仕官し始めた(当時は足利義昭と両属体制)のは本能寺の変の15年前の1567年。

本能寺の変勃発時55歳である説が最も合理的と考えます。

当時出世を争っていた47歳の秀吉よりも8歳上です。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、最長老ともいうべき柴田勝家は60歳でしたから、光秀は5歳若いです。

若いと言っても、当時の55歳は現代の感覚では65〜70歳ですから、大宿老です。

柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

重きをなしていた当時57歳の滝川一益に対しては、尊大な印象なある信長が結構気を遣っていたという説もあります。

絶対君主のように描かれる信長ですが実際には家臣団に対して、特に年長者に対しては相応に接していたのでしょう。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信長はじめとする四天王が相応の年齢となり、天下統一が目前となった時に起こった異常事態。

その「まさかの事態」が、本能寺の変だったのです。

本能寺の変 1(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

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