前回は「異常な出世から叛逆の道へ〜明智光秀の肖像画・戦国末期の京と江戸:京が中心であり重心であった日本・追放後の現将軍足利義昭と明智光秀の関係〜」の話でした。
本能寺の変当時の織田家の組織:光秀の実年齢
司馬遼太郎氏は「国盗り物語」などにおいて、本能寺の変直前において光秀の立場の描写があります。
本書で司馬は、本能寺の変時点の織田家において
織田信長にとって、
有用な人材は・・・
一に羽柴秀吉、二に明智光秀、
三に柴田勝家・・・
「織田家は一に羽柴秀吉、二に明智光秀」と描写しています。
筆者は「一に抜群に明智光秀、次いで羽柴秀吉、柴田勝家・・・」であったと考えます。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
柴田勝家 | 1522年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
明智光秀 | 1528年 |
滝川一益 | 1525年 |
本能寺の変の時の光秀の年齢は55歳、67歳など諸説あります。
本能寺の変勃発時、織田信長の年齢が49歳です。
信長に仕官し始めた(当時は足利義昭と両属体制)のは本能寺の変の15年前の1567年。
本能寺の変勃発時、「光秀が55歳であった」説が最も合理的と考えます。
織田信長と有力家臣団の年齢:日本の権力中枢の肖像
光秀は、当時出世を争っていた47歳の秀吉よりも8歳上です。
そして、最長老ともいうべき柴田勝家は60歳でしたから、
織田家宿老筆頭の
柴田殿は、私の5歳年上・・・
光秀は5歳若いです。
若いと言っても、当時の55歳は現代の感覚では65〜70歳ですから、大宿老です。
重きをなしていた、当時57歳の滝川一益。
一益に対しては、尊大な印象なある信長が「結構気を遣っていた」という説もあります。
一益よ。
大丈夫か?
絶対君主のように描かれる信長。
現実的には、家臣団、特に年長の家臣に対しては相応に接していたのでしょう。
万全の織田家家臣団の体制から崩壊へ
信長・四天王をはじめとする織田軍団が猛烈な勢いで、日本を制圧しようとしていました。
1567年に稲葉山城(岐阜城)を陥落させ、15年の月日が経過していました。
余も
もうすぐ50歳か・・・
敦盛「人生50年 下天のごとく・・・」
と歌っていたが・・・
余が
50歳になるのか・・・
信長・四天王が相応の年齢となり、天下統一が目前となりました。
猛烈な勢いで人生を
駆け抜けてきたが・・・
いよいよ、余が
もうすぐ「日の本の国」の主か・・・
信長が、そんなふうに考えていた時に起こった異常事態。
その「まさかの事態」が、本能寺の変だったのです。
次回は上記リンクです。