前回は「謀反・裏切りへの道と明智光秀〜超重要な坂本城の歴史的意義と位置・極めて優雅な水城・坂本城〜」の話でした。
異常な出世から叛逆の道へ:明智光秀の肖像画
明智光秀の最も有名な肖像画かと思いますが、ちょっと物憂げです。
一方で、光秀らしい「しっかりとした頭脳明晰な雰囲気」が伝わります。
のちに近畿管領とも言われる軍団長となり、宿老であった柴田・丹羽と肩を並べる立場となる光秀。
本能寺の変当時、明智光秀は織田家の筆頭的立場であったと考えられます。
なぜ、あんな新参者を、
信長様はここまで重用するのだ?
ワシには、
信長様の心が分からない・・・
戦国末期の京と江戸:京が中心であり重心であった日本
江戸が東京となり、現実的に「日本の首都」(法律では未制定)となって160年以上経過した現代。
現代ではなかなか想像できませんが、織田政権末期の江戸は田舎の一つでした。
関東の覇者・北条氏にとって、江戸は有力な支城でありましたが、拠点は小田原です。
関東の中心は、
小田原!
江戸は、単なる関東の一つの小さな街に過ぎなかったのです。
商業として盛んであったのは、摂津・堺、近江一円、そして信長の拠点であった美濃・岐阜、尾張・清洲等です。
政治的にも商業的にも日本の中心であった京都(山城)。
現在の日本で言えば、東京と大阪を合わせたくらいの重要性があったのでしょう。
本能寺の変勃発時には、関東の覇王・北条氏は織田家に従属する意向を示していました。
柴田勝家と対峙していた上杉家は、御館の乱で大きく力を落とし、虫の息です。
柴田軍が強力過ぎて、
我が上杉家も、もはや・・・
羽柴秀吉が対峙していた、毛利家も押され気味でした。
四国はこれからいよいよ、織田信孝を総大将とする大軍勢が乗り込む直前です。
九州は「まだ先」とはいえ、「織田信長の天下統一」は、誰が見ても目前でした。
最前線で戦闘を続けていた、羽柴秀吉・柴田勝家・滝川一益等に比較して、光秀が少し閑職であったような見方もあります。
追放後の現将軍・足利義昭と明智光秀の関係
こういう時期だからこそ、
光秀には、
側にいてもらいたい!
信長は光秀を「手元に置いておきたかった」のでしょう。
織田家の重臣に官位が与えられた時、明智光秀には九州の名族 惟任、丹羽長秀には同 惟住の姓が与えられました。
柴田・羽柴は、官位のみです。
ワシは官位は興味ないから、
信長様に辞退申し出た。
長秀の奴め、
ワシのいうことを聞かぬとは・・・
まあ、彼奴は強情だから、
仕方ないわ。
名族惟住の姓は、
嬉しい。
「九州に侵攻する時の総大将が明智光秀・補佐が丹羽長秀」となる意識を、信長が明確に打ち出したことでした。
そして、信長にとって九州侵攻は、毛利・長宗我部・上杉を叩き潰した後となりそうでした。
1582年当時の九州は大友・龍造寺・島津の三つ巴の様相でした。
関東の北条は従属、奥羽の方は後回しと、信長は考えていたでしょう。
まずは近畿一円と
その周辺を支配下に置くのだ!
とにかく、
中央から関東・九州は早々に押さえよう。
仮に島津・大友・龍造寺が連合を組んで刃向かってきたとしても、織田家の敵ではありません。
当時の織田家の軍事力・経済力に加えて、優れた家臣団が揃って向かえば、「長期化はない=すぐにカタがつく」状況です。
その天下統一=日本統一にあたり朝廷との関係を、しっかりとまとめる必要があります。
さらに、追放したとはいえ「まだ現将軍であった」足利義昭が存命です。
前将軍・義昭を
どうするか・・・
あやふやな「現将軍・義昭との関係」を、きちんとまとめる必要がありました。
それらを統括するには能力的に、そしてかつて足利義昭の家臣でもあった明智光秀以外には考えられません。
光秀は、ワシを
見限った裏切り者!
だが、身分卑しい羽柴など、
会う気がしないわ!
光秀なら、
話してやっても良い。
そこで、信長は光秀は、手元に置いていたのでしょう。
キンカン頭(光秀)がおらねば、
足利家との折衝は始まらぬ・・・
猿や権六(勝家)は、
前線で敵を屈服させるのが適任。
キンカン頭は、軍事もできるが、幕府・朝廷との交渉は、
奴しか出来ぬ!
そして、信長が「予想だにしなかった事態」が勃発したのです。
次回は上記リンクです。