本能寺の変 4〜中央で統括する光秀〜|織田信長と明智光秀

前回は「本能寺の変 3〜坂本城と明智光秀〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)

明智光秀の最も有名な肖像画かと思いますが、ちょっと物憂げですが、しっかりとした頭脳明晰な雰囲気が伝わります。

のちに近畿管領とも言われる軍団長となり、宿老であった柴田や丹羽と肩を並べる立場となる光秀。

柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

本能寺の変当時、明智光秀は織田家の筆頭的立場であったと考えられます。

なぜ、あんな新参者を、
信長様はここまで重用するのだ?

ワシには、
信長様の心が分からない・・・

丹波平定後の光秀の領地(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

江戸が東京となり、日本の首都となった現代ではなかなか想像できませんが、織田政権末期の江戸は田舎の一つでした。

関東の覇者・北条氏にとって、有力な支城でありましたが、拠点は小田原です。

北条氏政(Wikipedia)

関東の中心は、小田原!

江戸は、単なる関東の一つの小さな街に過ぎなかったのです。

商業として盛んであったのは、摂津・堺、近江一円、そして信長の拠点であった美濃・岐阜、尾張・清洲等です。

政治的にも商業的にも日本の中心であった京都(山城)。

現在の日本で言えば、東京と大阪を合わせたくらいの重要性があったのでしょう。

1582年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

本能寺の変勃発時には、関東の覇王・北条氏は織田家に従属する意向を示していました。

柴田勝家と対峙していた上杉家は、御館の乱で大きく力を落とし、虫の息です。

上杉景勝(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

柴田軍が強力過ぎて、我が上杉家も、もはや・・・

羽柴秀吉が対峙していた、毛利家も押され気味でした。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

四国はこれからいよいよ、織田信孝を総大将とする大軍勢が乗り込む直前です。

九州は、まだ先とはいえ、織田信長の天下統一は誰が見ても目前でした。

最前線で戦闘を続けていた、羽柴秀吉・柴田勝家・滝川一益等に比較して、光秀が少し閑職であったような見方もあります。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

こういう時期だからこそ、信長は光秀を「手元に置いておきたかった」のでしょう。

織田家の重臣に官位が与えられた時、明智光秀には九州の名族 惟任、丹羽長秀には同 惟住の姓が与えられました。

丹羽長秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

柴田・羽柴は、官位のみです。

ワシは官位は興味ないから、信長様に辞退申し出た。

長秀の奴め、ワシのいうことを聞かぬとは。

まあ、彼奴は強情だから、仕方ないわ。

しかし、名族惟住の姓は、嬉しい。

「九州に侵攻する時の総大将が明智光秀・補佐が丹羽長秀」となる意識を、信長が明確に打ち出したことでした。

そして、信長にとって九州侵攻は、毛利・長宗我部・上杉を叩き潰した後となりそうでした。

1582年当時の九州は大友・龍造寺・島津の三つ巴の様相でした。

1582年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

関東の北条は従属、奥羽の方は後回しと、信長は考えていたでしょう。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

とにかく、中央から関東・九州は早々に押さえよう。

仮に島津・大友・龍造寺が連合を組んで刃向かってきたとしても、織田家の敵ではありません。

当時の織田家の軍事力・経済力に加えて、優れた家臣団が揃って向かえば、「長期化はない=すぐにカタがつく」状況です。

その天下統一=日本統一にあたり朝廷との関係を、しっかりとまとめる必要があります。

さらに、追放したとはいえ、前将軍であった足利義昭との関係を、きちんとまとめる必要がありました。

足利義昭(Wikipedia)

それらを統括するには能力的に、そしてかつて足利義昭の家臣でもあった明智光秀以外には考えられません。

光秀は、ワシを見限った裏切り者!

しかし、身分卑しい羽柴など、会う気がしないわ!

光秀なら、話してやっても良い。

そこで、信長は光秀は、手元に置いていたのでしょう。

キンカン頭(光秀)がおらねば、始まらぬ。

猿や権六(勝家)は、前線で、敵を屈服させるのが適任。

キンカン頭は、軍事もできるが、幕府・朝廷との交渉は、
家臣では、奴しか出来ぬ。

そして、信長が予想だにしなかった事態が勃発したのです。

本能寺の変 1(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

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