流浪の民から織田家CIA長官となった秀吉〜「民衆」を背景にした稀有な人物・蜂須賀小六と川並衆・民衆の心を理解したただ一人の武将・調略と民衆・情報戦と忍者〜|羽柴秀吉2・出身・出自・性格

前回は「羽柴秀吉が諸国流浪で培った知恵〜秀吉の性格と雰囲気・織田家を「選んだ」秀吉・最も先進的で家柄が中途半端な織田・墨俣城築城・一気に飛躍へ〜」の話でした。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

「民衆」を背景にした稀有な人物:蜂須賀小六と川並衆

織田家美濃侵攻図(図説 豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

生い立ちや経歴から「民衆」を背景にした類例のない「特異な」存在であった秀吉。

この頃はまだ「木下藤吉郎」の名前でしたが、羽柴秀吉で統一します。

墨俣城築城後、急速に織田家で台頭します。

墨俣城(図説 豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

墨俣城では、
蜂須賀殿たちに非常に協力してもらった!

墨俣城を、非常に短期間に築城した秀吉。

伝説的にもなっている「墨俣城築城」ですが、「もともとあった城を補修した」など諸説あります。

実際に、「秀吉がどの程度関与したのか」も不明な点が多いです。

織田・羽柴家臣 蜂須賀正勝(Wikipedia)

木を切って、事前に築城に必要な
部材を作ったぜ!

さらに、その部材を筏にして
木材を流したぜ!

川並衆を束ねていた蜂須賀正勝(小六)が、大いに協力しました。

ちょうど岐阜から尾張にかけて、長良川などが多い地域を地盤としていた川並衆。

その並衆という名前からして、「河川を利用した戦略」は、彼らの得意技でした。

民衆の心を理解したただ一人の武将:調略と民衆

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

猿めは、
よく分からぬ連中と仲が良い様だな・・・

こうして、信長が思いもよらない戦略で墨俣に「織田家の橋頭堡」を築き上げた秀吉。

若い頃から、卓抜たる能力と実行力を有していました。

羽柴秀吉は調略等の能力が高いことも、非常に重要なポイントです。

この調略等の能力は、

その時点の状況を、いかに把握し、
相手が何を望んでいるか・・・

を考えることでした。

私自身が、
民衆出身!

そして、秀吉の本質は「民衆を理解し、民衆に協力者がいて諜報活動に非常に長けていた」ことでした。

私自身が、
ザ・民衆なのです!

左上から時計回りに、戦国大名 武田信玄、織田信長、毛利元就、上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

この「民衆を理解する」という視点は、織田信長・武田信玄・上杉謙信・毛利元就たちには「ない視点」でした。

「ない視点」というよりも、「考えもしなかった視点」でしょう。

甲斐守護の家柄の武田信玄、越後守護代の家柄の長尾景虎は、思いもよらない視点でしょう。

民衆は支配する対象であって、
「理解する」などというのは・・・

武田・上杉よりも「はるかに家柄が劣る」と言っても、殿様出身の信長は、

民衆は理解したいが、
その本質を理解するのは無理だな・・・

生まれながらの大名だから、
民衆のことは、良く知らない。

これは、信長・信玄・謙信達の能力の問題ではなく、「そもそも無理」な話だったのです。

この世に
最も大勢いるのは民衆なのだ・・・

彼等は、
実に様々な情報を持っている。

このことを本質的に理解していた、ただ一人の武将が羽柴秀吉でした。

民衆と戦略:情報戦と忍者

民衆が最も人数が
多いのが現実なのだ・・・

この「民衆」を背景にした武将というのは、当時秀吉以外には、ほとんど存在しなかったでしょう。

民衆こそが国の根本であり、底力だったのでした。

そして、場合によっては実に様々な情報という「陰の力」を持っていました。

そのことを「本質的に知っていた」のが秀吉でした。

そして、知っているだけではなく、その民衆の力を思い切り使いこなせた人物こそ秀吉でした。

情報・諜報が
第一だ!

「他の武将にはない」その特徴である諜報活動をフルに活用し、出世していったのです。

情報・諜報を非常に重視していた信長。

桶狭間の合戦で今川義元の首を上げた毛利新助ではなく、

簗田政綱が、
軍功第一だ!

簗田政綱は、「今川義元本隊の位置」を知らせてきたからでした。

桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

信長に限らず、武田信玄や毛利元就も非常に諜報活動を重視していました。

相手国と合戦する際は、諜報活動が最重要です。

大将や率いる武将が誰か、どのくらいの人数か、どのような武装か、どこに移動する予定か、などを知ること。

まさに「敵を知る」ことで非常に大事です。

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

孫子の「敵を知り・・・」は
超重要だ!

諜報活動というと、「忍び」みたいな話になり、忍者等が登場してきます。

実際にピョンピョン飛ぶような忍者はいて、攻城戦で活躍したのでしょう。

大事なのは普通の民衆であるかの如く振る舞い、敵地に侵入して情報を得ることです。

あるいは、わざわざ侵入しなくても「他国に在住している誰か」を報酬を与え、味方につけます。

そして、その国や城の様子や変化など様々な情報を報告させることです。

戦国大名 真田昌幸(Wikipedia)

池波正太郎の「真田太平記」では、忍びの話が中心です。

真田昌幸が、非常に諜報活動を重視していた様子が描かれています。

これは、長年「信玄の近侍」として間近で過ごし、学んできた武田信玄譲りでしょう。

流浪の民から織田家CIA長官へ

対浅井・朝倉 近江状況図(図説 豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

後に秀吉は浅井・朝倉戦で、前線の横山城の城代となり、数々の軍功を挙げました。

まさに最前線です。

最前線は一番大事でありますが、ここに柴田勝家を配置せず、秀吉を配置した信長。

名前生年(一部諸説あり)
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家方面司令官の生年

浅井・朝倉戦が熾烈を極めていた1570年ごろ。

まだ織田家の方面司令軍は出来ていませんが、すでに大きな版図を持っていた織田家。

各方面の司令官の萌芽は、すでに出来つつありました。

この頃、48歳ころの脂が乗り切った宿老・柴田勝家。

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

対して、33歳ほどの青年将校だった羽柴秀吉。

横山城は最前線で、
浅井・朝倉との戦いの命運を握っておる・・・

ここに配置する我が軍の司令官相当の武将は、
猿(秀吉)しかいない・・・

浅井家・朝倉家、及び周辺の国衆や地侍の情報を、秀吉が集めるように指示したのでしょう。

浅井の
国衆・地侍の情報を集めろ!

そして、国衆・地侍が織田につくよう、
調略せよ!

承知致しました。
この秀吉にお任せを!

ここで活躍したのが、秀吉の名参謀・竹中重治(半兵衛)です。

民衆の力を最大限に活かし、戦国時代最強の「情報戦略」を作り上げた羽柴秀吉。

まさに、羽柴秀吉は「織田家CIA長官」と言えるでしょう。

新歴史紀行

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