前回は「柴田勝家 1〜織田家随一の戦闘力を持つ男〜|戦国武将」の話でした。

今回は羽柴秀吉の話です。
様々な人物を考え、横断的に人物像を探って本質を多角的視点から見てみたいと思います。
肖像画は後世の創作かもしれませんが、光秀よりも勇猛果敢なイメージです。
秀吉が信長に仕える際に「草履を胸で温めた」などの逸話は全て創作です。
そして、信長に仕え始めた時期は諸説あります。
何者か全くわからない秀吉。
その秀吉が大身の身分に出世するのは、織田家しかありえなかったのです。
のちに、織田家の中国方面軍の司令長官となった秀吉。
他家ならば、足軽大将がせいぜいでしょう。

若い頃、針売りなどをして諸国を流浪した秀吉は、その成長過程で独特の勘や嗅覚のようなセンスを身につけます。
そして、蜂須賀正勝のような存在とも知り合いました。

この私は、
どの大名家ならば最も重用されるか。
秀吉は、考えに考え抜きます。
その挙句に、最終的に信長の織田家を選んだのでしょう。
近隣には織田家より強豪の武田家や今川家もあります。



武田や今川では・・・



身分の低い私が立身出世する
可能性は非常に低い。
と踏んだに違いない。


「尾張中村の出身」という話は本当かどうか証拠のない話であり、ひょっとすると他国出身かも知れません。
織田家に対して「地元出身」を、アピールするために創作した話とも考えられます。
桶狭間の戦いの前に信長に仕官した秀吉が、一躍表舞台に出たのは墨俣城の築城です。


「一夜城」と言われますが実際は「もともとあった城を補修した」など諸説あります。
実際は、一から築城したのではなく、もともとあった砦を補強したのでしょう。


墨俣状の位置を見ると、稲葉山城と大垣城の間にあり、非常に重要な地点であることがわかります。
ここを織田家に取られることは、斎藤家にとっては、「喉元に刃を突きつけられた」気持ちになったでしょう。
実態は脚色されていたとしても、諸国流浪で培った民衆との関係をフルに活かして、墨俣状築城を成し遂げます。
古くからの付き合いのある蜂須賀正勝(小六)らが、秀吉に大いに協力しました。


美濃国にいわば「織田の楔」を打ち込んだ秀吉。



こういう芸当は、
俺たち得意だぜ!
宿老の柴田勝家・佐久間信盛らが、実現困難な極めて大きな仕事をやり遂げました。





猿(秀吉)は、なんであんなところに
築城できたんだ?
墨俣築城は、織田家にとって計り知れない大きな軍功をもたらしました。



これで美濃は織田家のものよ!
そして、美濃・近江攻略戦などで、秀吉はどんどん功績を上げてゆき、織田家でのし上がってゆくのです。