羽柴秀吉が諸国流浪で培った知恵〜秀吉の性格と雰囲気・織田家を「選んだ」秀吉・最も先進的で家柄が中途半端な織田・墨俣城築城・一気に飛躍へ〜|羽柴秀吉1・出身・出自・性格

前回は「明智光秀 1〜光秀の本性・どんな人物か・出身・出自・羽柴秀吉・織田信長・比叡山焼き討ち〜」の話でした。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

羽柴秀吉が諸国流浪で培った知恵:秀吉の性格と雰囲気

織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(Wikipedia)

羽柴秀吉という人物を考え、横断的に人物像を探って本質を多角的視点から見てみたいと思います。

肖像画は後世の創作かもしれませんが、光秀よりも勇猛果敢なイメージです。

「ネクラな光秀」に対して、「ネアカ」に描かれることが多い秀吉。

私は、
農民ですらない最下層出身!

人とうまく
付き合ってゆかなければ・・・

織田四天王の中でも、家柄の良い柴田勝家、早くから織田家に使えていた滝川一益。

それに対する「中途入社組」と言われる羽柴秀吉と明智光秀。

1537年生まれの秀吉(藤吉郎)は、1554年頃に信長に仕え始めました。

つまり、秀吉は17歳〜18歳頃からずっと織田家であり、バリバリの「織田家一筋」です。

私は、
「中途入社」ではない!

最初から、ずっと
「織田家」なのだ!

40歳頃から織田家と関係を持ち始めた光秀とは、全然違います。

織田家を「選んだ」藤吉郎・秀吉:最も先進的で家柄が中途半端な織田

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

秀吉が信長に仕える際に「草履を胸で温めた」などの逸話があります。

信長様、
この草履を・・・

ふむう・・・
猿は気が効くのう・・・

これらの逸話などは、ほとんど全て創作です。

そして、信長に仕え始めた時期もまた、「1554年頃」であり諸説あります。

何者か全くわからない秀吉。

その秀吉が大身の身分に出世するのは、「織田家しかありえなかった」でしょう。

1582年の織田家臣団と敵対勢力(歴史人2016年12月号 KKベストセラーズ)

のちに、織田家の中国方面軍の司令長官となった秀吉。

他家ならば、足軽大将がせいぜいでしょう。

若い頃、針売りなどをして諸国を流浪した秀吉。

その成長過程で、独特の勘や嗅覚のようなセンスを身につけます。

そして、蜂須賀正勝のような存在とも知り合いました。

織田・羽柴家臣 蜂須賀正勝(Wikipedia)

よう!
藤吉!

これは、
蜂須賀殿!

後に秀吉の「糊口の臣下」となる蜂須賀正勝。

まだ藤吉郎だった秀吉と知り合った頃は、尾張周辺の川並衆を束ねた存在でした。

いわば、「少しガラが悪い」連中の頭目だった正勝。

秀吉との出会いにより、大きく運命の扉が開かれました、

この私は、
どの大名家ならば最も重用されるか。

秀吉は、考えに考え抜きます。

その挙句に、最終的に信長の織田家を選んだのでしょう。

近隣には、織田家より強豪の武田家や今川家もあります。

戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田や
今川では・・・

身分の低い私が立身出世する
可能性は非常に低い。

と踏んだに違いないでしょう。

戦国大名 今川義元(Wikipedia)

後に「当時最も先進的」と称される織田家ですが、それは「後世から見た視点」です。

当時は、今川も武田も北条も「先進的な面」が多数あったでしょう。

先進的な面があるからこそ、彼らは大勢力となることができたのです。

そもそも、「信長の天才性」もまた後世の視点であり当時は「分からなかったこと」です。

織田家は、守護代ですらなく、
守護代の家老の家柄・・・

秀吉のような身分が伸びてゆくには、「仕える大名は大した家柄ではない」方が良いのは明らかでした。

家柄がしっかりしていると、
大名本人のみならず、周囲が私を認めないだろう・・・

その結果、

この辺では、出来星大名の
織田家こそ、我が運命を託す大名だ!

こう秀吉は考えのでしょう。

そもそも、「尾張中村の出身」という話すら本当かどうか証拠のない話です。

ひょっとすると、他国出身かも知れません。

信長に対して「地元出身」を、アピールするために創作した話である可能性もあるでしょう。

墨俣城築城:一気に飛躍へ

墨俣城(図説 豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

桶狭間の戦いの前に信長に仕官した秀吉が、一躍表舞台に出たのは墨俣城の築城です。

「一夜城」と言われる墨俣城。

実際は、「もともとあった城を補修した」など諸説あります。

現実的には、一から築城したのではなく、もともとあった砦を補強したのでしょう。

織田家美濃侵攻図(図説 豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

墨俣状の位置を見ると、稲葉山城と大垣城の間にあり、非常に重要な地点であることがわかります。

ここを織田家に取られることは、斎藤家にとっては、

こんなところに、
織田家の拠点を作られては・・・

「喉元に刃を突きつけられた」
ようなものだ・・・

という状況でした。

諸国流浪で培った民衆との関係をフルに活かして、墨俣状築城を成し遂げます。

古くからの付き合いのある蜂須賀正勝(小六)らが、秀吉に大いに協力しました。

美濃国にいわば「織田の楔」を打ち込んだ秀吉。

こういう芸当は、
俺たち得意だぜ!

宿老の柴田勝家・佐久間信盛らが、次々失敗した墨俣築城。

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

敵(斎藤)の目の前で、
築城なんて、出来るか!

ところが、秀吉は、「実現困難な極めて大きな仕事」をやり遂げました。

猿(秀吉)は、なんであんなところに
築城できたんだ?

墨俣築城は、織田家にとって計り知れない大きな軍功をもたらしました。

これで美濃は
織田家のものよ!

この後、美濃・近江攻略戦などで、秀吉はどんどん功績を上げてゆきます。

そして、織田家でのし上がってゆき、「織田家の中核」となってゆくのでした。

新歴史紀行

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