前回は「若い頃は大豪傑だった南雲忠一〜「軍備拡張派=艦隊派」急先鋒南雲忠一・第一次世界大戦勃発と「軍縮への道」・各国の建艦競争牽制の動き〜」の話でした。

「戦争の恐ろしさ」未経験世代:日本海海戦最年少将校・山本五十六

帝国陸軍と比較して、やや優しい感じの将軍が多い帝国海軍。
その中で、一際「豪傑的雰囲気」が強いのが南雲忠一でした。
1884年生まれの山本五十六の3年後、1887年に生まれた南雲忠一。

山本五十六僕は、海兵卒業後
すぐに日本海海戦で戦いました!
当時、「高野」五十六という名前だった山本五十六は、「海兵卒業最年少」で出陣しました。
若かった山本五十六は、少尉となる前の少尉候補生で、装甲巡洋艦日進に乗り込みました。





一生懸命戦ったけど、
指が・・・
日本海海戦は、帝国海軍大勝利に終わりましたが、山本五十六少年は大きな重傷を負いました。
山本五十六は、日本海海戦での戦傷により、左手の人差指と中指を欠損してしまいました。
さらに、左大腿部にも重傷を負い、瀕死の怪我となってしまった高野五十六。
一時は「帝国海軍将校としての道」が危ぶまれるほどの重傷でした。



軍人としては、戦うことが
最も大事かもしれないけど・・・



戦争は本当に、
本当に大変な現場だ・・・
この日本海海戦での経験は、山本五十六の思考に重大な影響を与えました。
若い頃、日本海海戦に参加した山本五十六に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
日露戦争後、帝国海軍は第一次世界大戦に参戦しましたが、大きな戦争とは無縁でした。
| 海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
| 28 | 永野 修身 | 大砲 | 軍令部総長 |
| 32 | 山本 五十六 | 航空(大砲) | 連合艦隊司令長官 |
| 35 | 近藤 信竹 | 大砲 | 第二艦隊司令長官 |
| 36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
| 37 | 井上成美 | 航空 | 第四艦隊司令長官 |
| 37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
| 40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
| 40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
| 41 | 草鹿 龍之介 | 航空 | 第一航空艦隊参謀長 |
海兵32期の山本五十六の下級生たちは、「戦争の恐ろしさ」を未経験の世代でした。
顔つきが「豪傑風」に変わった南雲忠一:「軍縮」への強烈な違和感


上の写真は、南雲忠一が中尉の頃の若い写真です。
若い頃から壮年になるにつれて、顔つきが変わる人、あまり変わらない人、など様々です。
山本五十六は、顔つきが「若い頃から、あまり変わらなかった」人物と考えます。



これからは、
水雷の時代だ!
山本と比較すると、南雲忠一は、若い頃から「だいぶ顔つきが変わった」人物でした。
若い頃は、どちらかというと「優しい感じ」の優等生だった南雲忠一。
海兵を8位で卒業し、海軍大学校にも進み、帝国海軍エリートの道を突っ走りました。
ちょうど、「海軍の平和時代」に壮年になった南雲は、軍縮反対派でした。



多少の軍縮は
やむ得ないが・・・



我が帝国を守るための
艦隊は絶対に必要だ!
世界の戦争がほとんどなくなり、1930年代半ばまでは「小康状態」となった世界の海軍。


1934年のロンドン軍縮条約では、山本五十六は海軍主席であり「軍縮賛成派」でした。



お互い軍艦を
減らせば、良いではないか・・・
二度にわたる駐米経験を持つ山本五十六は、大日本帝国の「身の丈」を知り尽くしていました。



我が帝国海軍は、
確かに大きく成長した・・・



だが、帝国と米国の国力を
比較すると、どうにもならん・・・
当時は、すでに米国の力が圧倒的になっていた時代でした。
当時の総合的な国力を比較すると、大日本帝国は米国の1/10程度でした。
つまり、大雑把に言えば、米国は大日本帝国の「10倍の建艦能力を有していた」とも言えます。





軍縮、大いに結構では
ないか・・・



我が帝国が
対米0.6975なのだから・・・



米国は、帝国の
約10/7=約1.4倍しか建艦できない・・・



つまり、米国の建艦能力に
キャップをかけたのだ!
若い頃からずっと数学が好きで、優れた頭脳を持っていた井上成美は、このように考えていました。
それに対して、南雲は、



そんな数学的な
発想は、戦争の現場とは違う!



軍縮なんかやって、
周囲を海に囲まれた帝国が守れるか!
そして、軍令部第二課長となった南雲は、海軍省にはほとんど関わりを持たず、実戦派となりました。
この南雲の「軍縮に対する強烈な違和感」が、南雲の顔つきを「豪傑風」に変えていきました。


