顔つきが「豪傑風」に変わった南雲忠一〜「軍縮」への強烈な違和感・「戦争の恐ろしさ」未経験世代・日本海海戦最年少将校山本五十六〜|南雲忠一4・能力・エピソード

前回は「若い頃は大豪傑だった南雲忠一〜「軍備拡張派=艦隊派」急先鋒南雲忠一・第一次世界大戦勃発と「軍縮への道」・各国の建艦競争牽制の動き〜」の話でした。

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南雲忠一 第一航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
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「戦争の恐ろしさ」未経験世代:日本海海戦最年少将校・山本五十六

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左上から時計回りに、永野修身 軍令部総長、山本五十六 連合艦隊司令長官、山口多聞 第二航空戦隊司令官、南雲忠一 第一航空艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社、Wikipedia)

帝国陸軍と比較して、やや優しい感じの将軍が多い帝国海軍。

その中で、一際「豪傑的雰囲気」が強いのが南雲忠一でした。

1884年生まれの山本五十六の3年後、1887年に生まれた南雲忠一。

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高野(山本)五十六少尉(Wikipedia)
山本五十六

僕は、海兵卒業後
すぐに日本海海戦で戦いました!

当時、「高野」五十六という名前だった山本五十六は、「海兵卒業最年少」で出陣しました。

若かった山本五十六は、少尉となる前の少尉候補生で、装甲巡洋艦日進に乗り込みました。

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戦艦三笠に座乗する東郷平八郎連合艦隊司令長官(Wikipedia)
山本五十六

一生懸命戦ったけど、
指が・・・

日本海海戦は、帝国海軍大勝利に終わりましたが、山本五十六少年は大きな重傷を負いました。

山本五十六は、日本海海戦での戦傷により、左手の人差指と中指を欠損してしまいました。

さらに、左大腿部にも重傷を負い、瀕死の怪我となってしまった高野五十六。

一時は「帝国海軍将校としての道」が危ぶまれるほどの重傷でした。

山本五十六

軍人としては、戦うことが
最も大事かもしれないけど・・・

山本五十六

戦争は本当に、
本当に大変な現場だ・・・

この日本海海戦での経験は、山本五十六の思考に重大な影響を与えました。

若い頃、日本海海戦に参加した山本五十六に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

日露戦争後、帝国海軍は第一次世界大戦に参戦しましたが、大きな戦争とは無縁でした。

海軍兵学校卒業期名前専門役職
28永野 修身大砲軍令部総長
32山本 五十六航空(大砲)連合艦隊司令長官
35近藤 信竹大砲第二艦隊司令長官
36南雲 忠一水雷第一航空艦隊司令長官
37井上成美航空第四艦隊司令長官
37小沢 治三郎航空南遣艦隊司令長官
40宇垣 纏大砲連合艦隊参謀長
40山口 多聞航空第二航空戦隊司令官
41草鹿 龍之介航空第一航空艦隊参謀長
連合艦隊幹部の専門・役職・海軍兵学校卒業期(1941年9月)

海兵32期の山本五十六の下級生たちは、「戦争の恐ろしさ」を未経験の世代でした。

顔つきが「豪傑風」に変わった南雲忠一:「軍縮」への強烈な違和感

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南雲忠一 中尉(Wikipedia)

上の写真は、南雲忠一が中尉の頃の若い写真です。

若い頃から壮年になるにつれて、顔つきが変わる人、あまり変わらない人、など様々です。

山本五十六は、顔つきが「若い頃から、あまり変わらなかった」人物と考えます。

南雲忠一

これからは、
水雷の時代だ!

山本と比較すると、南雲忠一は、若い頃から「だいぶ顔つきが変わった」人物でした。

若い頃は、どちらかというと「優しい感じ」の優等生だった南雲忠一。

海兵を8位で卒業し、海軍大学校にも進み、帝国海軍エリートの道を突っ走りました。

ちょうど、「海軍の平和時代」に壮年になった南雲は、軍縮反対派でした。

南雲忠一

多少の軍縮は
やむ得ないが・・・

南雲忠一

我が帝国を守るための
艦隊は絶対に必要だ!

世界の戦争がほとんどなくなり、1930年代半ばまでは「小康状態」となった世界の海軍。

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1934年のロンドン軍縮条約に海軍首席代表として出席する山本五十六(Wilipedia)

1934年のロンドン軍縮条約では、山本五十六は海軍主席であり「軍縮賛成派」でした。

山本五十六

お互い軍艦を
減らせば、良いではないか・・・

二度にわたる駐米経験を持つ山本五十六は、大日本帝国の「身の丈」を知り尽くしていました。

山本五十六

我が帝国海軍は、
確かに大きく成長した・・・

山本五十六

だが、帝国と米国の国力を
比較すると、どうにもならん・・・

当時は、すでに米国の力が圧倒的になっていた時代でした。

当時の総合的な国力を比較すると、大日本帝国は米国の1/10程度でした。

つまり、大雑把に言えば、米国は大日本帝国の「10倍の建艦能力を有していた」とも言えます。

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井上成美 海軍省軍務局第一課長(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
井上成美

軍縮、大いに結構では
ないか・・・

井上成美

我が帝国が
対米0.6975なのだから・・・

井上成美

米国は、帝国の
約10/7=約1.4倍しか建艦できない・・・

井上成美

つまり、米国の建艦能力に
キャップをかけたのだ!

若い頃からずっと数学が好きで、優れた頭脳を持っていた井上成美は、このように考えていました。

それに対して、南雲は、

南雲忠一

そんな数学的な
発想は、戦争の現場とは違う!

南雲忠一

軍縮なんかやって、
周囲を海に囲まれた帝国が守れるか!

そして、軍令部第二課長となった南雲は、海軍省にはほとんど関わりを持たず、実戦派となりました。

この南雲の「軍縮に対する強烈な違和感」が、南雲の顔つきを「豪傑風」に変えていきました。

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