前回は「畏友・堀悌吉に強い憧憬持った山本五十六〜「米国通」から「対米協調」の急先鋒へ・海兵32期の将星たち〜」の話でした。

日本海海戦での大勝利と重傷:生涯失った左手人差指と中指

1984年に生まれ、1909年、米国駐在武官として米国に赴任した山本五十六。
当時は、まだ実家の「高野」姓であり、高野五十六という名前でした。

この4年前の1905年には、帝国海軍は日露戦争・日本海海戦で大勝利しました。
この時、「帝国海軍士官で最も若い海兵32期」の一員だった高野五十六。
まだ少尉となる前の少尉候補生で、装甲巡洋艦日進に乗り込みました。

少尉候補生として、
日本海海戦で戦った!
大勝利したのは良かったですが、この日本海海戦で高野は左手の人差指と中指を欠損してしまいました。
この時は左大腿部にも重傷を負い、瀕死の怪我となってしまった高野五十六。



一生懸命戦ったけど、
指が・・・
まだ21歳の青年だった高野は、かなりのショックを受けたでしょう。
左大腿部の怪我も重傷でしたが、左手の人差指と中指は生涯欠損したままでした。
軍人として戦う以上、文字通り「命掛け」であり「重傷で済んだ」という見方も成り立ちます。
それでも、「海兵卒業したて」だった若い高野は大きなショックを受けたに違いないでしょう。



とにかく入院して
治療後、さらに帝国海軍でお役に立つ!
若い頃から、何事にも一生懸命だった気持ちを維持して、治療に励みました。
そして、治療が終わった高野五十六は、戦艦や駆逐艦で勤務しながら、成長してゆきました。
砲術学校、水雷学校でも一生懸命学び、当時主流だった「戦艦の戦い」を身につけた高野。
帝国海軍最強の知米派・山本五十六:「生の戦争」と米国駐在


左手人差指と中指を失ってしまう、痛恨の重傷を受けてしまった高野五十六。
その一方で、「帝国海軍士官として最年少32期生」の一人として実戦を経験したのは、極めて大きな財産でした。
日露戦争の後、第一次世界大戦が勃発しましたが、この時は参戦したものの、



遠い欧州での
戦いだな・・・
帝国海軍にとって「本格的な海戦」を経験することはありませんでした。
そして、第一次世界大戦後10年ほど、平和な時代・軍縮の時代が続きました。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 役職 |
28 | 永野 修身 | 軍令部総長 |
32 | 山本 五十六 | 連合艦隊司令長官 |
32 | 嶋田 繁太郎 | 海軍大臣 |
36 | 南雲 忠一 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 南遣艦隊司令長官 |
40 | 宇垣 纏 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 福留 繁 | 軍令部第一部長 |
40 | 山口 多聞 | 第二航空戦隊司令官 |
41 | 草鹿 龍之介 | 第一航空艦隊参謀長 |
後に、第二次世界大戦(太平洋戦争)の時の、帝国海軍大幹部の連合艦隊司令長官となった高野。
なんといっても、この少尉候補生時代の「日本海海戦の経験」が極めて重大な意味を持っていました。
戦艦三笠を中心とする、戦艦や巡洋艦の砲撃を目の当たりにした高野。



戦艦と巡洋艦、
そして、駆逐艦で敵を倒す!
この時は、空母は全く存在しませんでした。
そのため、海戦は戦艦・巡洋艦・駆逐艦で行われ、まさに「砲撃の時代」でした。
当時は、「格上の大国」であったロシアに対して、大勝利を収めた帝国海軍は、



我が国を守る帝国海軍は、
敵に打撃を与えつつ・・・



そして、日本近海の
艦隊決戦を挑むのだ!
世界各国共通であった「大艦巨砲主義」を強力に推進することになりました。
若い頃の高野五十六もまた当然「大艦巨砲主義」であり、



やはり、
戦艦を強化せねば・・・



世界最強の戦艦を
我が帝国海軍が持てないものか・・・
「世界最強の戦艦」を夢見ていたに違いありません。
後に「空母航空隊の生み+育ての親」となる高野(山本)五十六。
高野がまだ20代だった頃には、「空母航空隊の概念」が少しずつ生まれていた程度でした。



高野五十六に、
米国駐在を命ずる!



はいっ!
米国に行って参ります!
束の間の平和の時期に、まだ25歳ほどだった高野青年。
帝国海軍内部で「有望株」には、早めに海外の駐在経験を命じていた帝国海軍。
海兵卒業席次 | 氏名 | 主な役職 |
1 | 堀 悌吉 | 海軍軍務局長 |
2 | 塩沢 幸一 | 第五艦隊司令長官 |
11 | 山本(高野) 五十六 | 連合艦隊司令長官、海軍次官 |
12 | 吉田 善吾 | 連合艦隊司令長官、海軍大臣 |
27 | 嶋田 繁太郎 | 海軍大臣、軍令部総長 |
海兵を11位という「恩賜の短剣組」は逃したものの、優秀な成績で卒業した高野。


そして、高野は、若い頃から大人物の雰囲気がありました。



帝国海軍の
お役に立つのだ!
そして、「口数が極端に少なかった」高野少年に対して、



高野は、もう少し喋った方が
良いんじゃないか?



はあ・・・
そうでしょうか・・・
教官から「もう少し話したほうが良い」と注意された説があります。
そして、若い頃から「敵国視」していた米国に異常に強い興味を持っていた高野。



米国のことを
もっと、もっと知りたい!
まだ25歳だった高野を「買っていた」帝国海軍でしたが、まだ米国にゆくには「若い」はずでした。



高野五十六は、
若いのに、指を失う大怪我をした・・・



それにも関わらず、
懸命に業務に励み、大変宜しい!
「帝国海軍軍人の模範」のような存在であった高野に対して、



米国に興味を持っているなら、
見せてやるのが良い・・・
このように「帝国海軍が配慮」したのでしょう。



米国を実地で見て、
米国のたくさんのことを学ぶ!
そして、後に「帝国海軍最強の知米派」となる素地が生まれてゆきました。