前回は「たそがれの安土城址〜織田信長の夢の跡〜」の話でした。
安土城:石段を上がる

織田信長の夢へ駆ける思いを想像しながら、安土城跡の石段を登りました。
この日は、曇りで天候があまり良くなかったこともあり、周辺には僕しかいません。

安土城のある山(安土山)は、標高が大して高くなく、「小高い丘」に近い山です。
それでも山である以上、麓から石段を上がってゆくと、結構な距離があります。

まさに山城である、安土城。
ビルなどはなく、2階建ての建築が多かった信長の時代。
安土城の時期までの時期で大きな城は、小田原城・春日山城などがあります。
あるいは、「最初の天主閣のある城」と言われる松永久秀が築城した多聞山城。

多聞山城は現存しませんが、安土城の天主閣と比較したら、小さな規模だったでしょう。
32mほどの安土城天主閣が安土山にそびえ立った時、「非常な威容だった」だったと思われます。

信長から奉行を命ぜられた丹波長秀も、

大変な
巨城だ・・・
経済力のある織田家なので、予算は莫大にあると言っても、まだ戦国時代で方々で合戦が起きていた当時。
これだけ膨大な城を「一から築く」総指揮をとった長秀の才覚もまた、かなり高いレベルです。



あの辺りに
天主閣があったのだろう・・・
そんなことを考えながら、石段を一人上がりました。
曇りだったため、周囲には人が全く不在で、少し寂しい感じもありますが、



周囲を気にせずに、
思う存分、楽しめる!
むしろ楽しい気持ちもありました。
信長・織田家臣団の思い


専制体制であった織田家においては、「すべての大事なことは信長が独断で決定していた」体制でした。
とはいえ、信長といえども、家臣団には「相応の配慮」をしていたでしょう。
特に軍団長・司令官格で、信長より年上の光秀・勝家・一益の三人には、相応の待遇をしていたと思われます。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
柴田勝家 | 1522年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
明智光秀 | 1528年 |
滝川一益 | 1525年 |
この意味では、いかに「信長専制」といえども、「各方面軍司令官あっての織田家」でした。
それは、織田家があまりに急速に膨張した結果でもあり、その原動力でもあったのでした。





余の夢を
安土城に託す・・・
そう考えていた信長でしたが、重臣である勝家・一益・光秀・秀吉・長秀たちもまた、



長い、長い
戦いであった・・・



尾張半国の
三家老だった信長様の織田家・・・



義昭様とも
色々あったが・・・



信長様を追いかけて、
ついにここまで・・・



大変な巨城を
なんとか作り上げた・・・
このように「やっとここまで」と思っていたことでしょう。
天主閣から琵琶湖の眺め


そして、天主閣のあった場所に出ます。
天主閣から、琵琶湖を見晴らしましょう。
日本の象徴的湖で、当時は水運の要であり、農業にも大いに役だった大いなる湖です。
少し曇りでしたが、琵琶湖がよく見えます。
信長の頃とは琵琶湖の大きさも違いますが、琵琶湖がパーっと広がっていた光景が目に浮かびます。
当時は、水運が非常に重要でした。


信長の安土城・光秀の坂本城・秀吉の長浜城・津田信澄(光秀の娘婿)の大溝城で、琵琶湖を囲んでいた当時。
四つの白によって、水運ネットワークが構築されていました。
琵琶湖を船で移動すると、陸路よりも早く移動できるので、京へのアクセスもとても良かったのです。
天主閣跡地から、岐阜側を見てみましょう。


今日でも、広大な田園風景が広がっています。
当時は、なおさら平坦で実りある「美しい肥沃の地:近江国」が広がっていた事でしょう。
織田信長が、築城する場所として安土を選んだ理由。
それは、京へのアクセス・交通の要衝・山の上である事など様々な要素があります。
そして、「夢を具現化した」安土城の天主閣から、信長は「天皇のいる京を見下ろした」のでしょう。



余が、
この国の帝王なのだ・・・
こうして上から眺めてみると、分かる気がしてきます。


天下統一へ向けて、信長が「この地を選んだ気持ち」が。
次回は上記リンクです。