明智光秀に流れる室町幕府の優れた人材〜明智に合体した細川・京追放後の現将軍足利義昭の動き・織田家の更なる膨張へ・最強の北陸方面軍誕生〜|明智光秀7・人物像・軍事力・エピソード

前回は「織田家で飛躍的に重くなる光秀の立場〜正式な政府が消滅した京都・将軍足利義昭の追放・残存する没落した足利将軍家の「中世的パワーと権威」・明智と細川〜」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

京追放後の現将軍・足利義昭の動き

1575年の織田家と諸大名の関係(歴史人2020年2月号 KKベストセラーズ)

長篠の合戦が起きた1575年、浅井・朝倉を討滅した織田家は安定しつつありました。

ところが、まだまだ「織田の天下は定まっていない」状況でした。

室町幕府第十五代将軍:足利義昭(Wikipedia)

この2年前の1573年には、室町幕府第十五代将軍である足利義昭を京都から追放した信長。

ついに信長に
完全に敗れてしまった・・・

1568年に足利義昭を奉じて、京都に殴り込んだ織田信長でしたが、早々に両者の関係は破綻しました。

俺は
将軍なんだぞ!

将軍として「やる気満々」だった足利義昭に対して、

将軍の権威は重要だが、そもそも我が
織田家の軍事力・経済力が幕府を支えているのだ!

思惑が全くずれていた二人。

その後、足利義昭は何度も信長を潰そうと挙兵したり、信長包囲網を構築してきました。

信長を倒せ!
これは将軍の命令だ!

「征夷大将軍の権威」を振りかざし続けた義昭に対して、信長は堪忍袋の尾を切りました。

もう良い!
義昭は追放!

信長めに
負けた・・・

この時、将軍義昭を処刑することも「選択肢の一つ」であり、信長は思い悩んだでしょう。

ところが、

足利義昭を処刑するのは、
百害あって一利なし!

抜群に明晰な頭脳を持っていた信長には、「将軍を殺す」絶大なデメリットを冷静に計算しました。

義昭を、とりあえず
京から追放する!

正親町天皇(Wikipedia)

ついに義昭が信長に
追放されたか・・・

こちらは「17歳年下の若造」であった信長に圧力をかけ続けられていた正親町天皇。

もし、ここで正親町天皇と信長の仲が極めて良好であったなら、

足利家に対して、将軍
任命を停止するか・・・

具体的に「足利将軍家停止」を正親町天皇は考えたかもしれません。

ところが、圧倒的軍事力を背景に天皇・朝廷に圧力をかけ続けていた信長。

おいそれと信長の考える通りにしたら、
我々が何をされるか・・・

そこで、京を追放された足利義昭は、

まだまだ足利義昭は、
現将軍である!

というスタンスを固めていました。

織田家の更なる膨張へ:最強の北陸方面軍誕生

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この1575年頃は、柴田勝家の北陸方面軍は形成過程でした。

武田をここまで完膚なきまで叩けば、
しばらくは武田の動きは鈍るだろう・・・

東の武田を叩いた信長の目は、北へ向かいます。

朝倉を倒した越前を、一度奪い取りにきた
加賀一向宗門徒を潰せ!

顕如率いる一向一揆の本拠地である加賀があります。

法主 本願寺顕如(Wikipedia)

後に、信長と和睦(降伏)をする本願寺顕如。

大坂の地に広大な拠点を築き、反信長の戦いを続けていました。

顕如のいる総司令部がある大坂は、一向一揆の「拠点は大坂」と考えられます。

かつて、守護であった富樫氏を武力で追い出し、国内初の「宗教集団が統治する国」を生み出した一向宗。

仏敵・織田信長を
討滅せよ!

その国こそ、加賀であったのです。

その意味では、戦略上は「大坂が本拠地」であっても、「精神的本拠地は加賀」でした。

加賀への侵攻は本願寺・一向一揆による頑強な抵抗が予想されます。

さらには、「戦国最強の男」の影がチラつきます。

戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

これまで上京する時は、北陸から京へ入っていた上杉謙信。

北条家と戦ったり、同盟を結んだりですが、関東管領として関東へは何度も出陣している謙信。

北陸から上杉謙信が乗り込んでくる可能性も予想されます。

頑強な一向一揆に加え、戦国最強の上杉謙信を相手に戦える人物は、織田家には一人しかいません。

そして、猛烈な強さを柴田軍団に与えるために、織田家選りすぐりの猛将を選んだ信長。

本願寺と上杉を相手するには、
我が織田家最強軍団を!

佐々成政・前田利家・佐久間盛政らが寄騎となることは確定していました。

佐々成政(歴史人2016年12月号 KKベストセラーズ)

秀吉は、長篠直後の1577年の手取川の戦いの際に、上杉謙信の来襲に対抗する柴田勝家軍団の中に組み込まれかけます。

しかし、勝家と喧嘩して勝手に戦線を離脱して、信長を激怒させています。

「勝手に戦線離脱」しても「信長は自分を消すことはない」と秀吉は、確信を持っていたのでしょう。

傲岸不遜な勝家の下なんかに、
つけないわ!

上様は、織田家の情報を統括している私を
まだまだ必要としているはず!

明智光秀に流れる室町幕府の優れた人材:明智に合体した細川

1575年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

秀吉はこの頃、京を任されて「織田家の副将格」になった明智光秀に対して、嫉妬を感じていたでしょう。

なんで、新参者の光秀ばっかり
目立つんだ・・・

京・山城の南西から北にかけての国々である大和・近江・若狭などの国は、すでに抑えた信長。

摂津・大坂の顕如とは交戦中ですが、残るは、波多野家・赤井家など様々な大名・国衆がいる山岳地の丹波があります。

丹波国という京に隣接する、非常に重要な国の攻略を命じられた光秀。

光秀よ!
丹波を攻略せよ!

かつての主人であり、今は寄騎の細川藤孝の細川家は、かつての丹波を支配していました。

丹波攻略には
細川を連れてゆけ!

新歴史紀行
織田家家臣 細川藤孝(幽斎)(Wikipedia)

丹波の大名との交渉、国衆の調略には、
「細川」の名前が威力を持つだろう・・・

この頃、足利家から織田家に移り、見方によっては「主家である足利家を裏切った」細川藤孝。

足利義昭様には
懸命に仕えたが・・・

これからの時代は、
織田家だ!

その後ろめたさから、細川から長岡に改名していた藤孝。

それでも、「一時的」であり「細川は細川」でした。

そして、そもそもは「明智光秀の上役・主人」であったと言われる細川藤孝。

この名門貴族にも類する超名門の細川が、明智光秀の寄騎に正式になり、明智家の力はさらに強力になりました。

細川ほどの名門となると、
権六(勝家)や猿(秀吉)の寄騎にするわけにはいかん・・・

ここは、もともと幕府の仲間である
キンカン頭(光秀)の寄騎とすべきだろう・・・

ここに「明智+細川」が合体し、旧幕府勢力を明智家が正式に吸収する方向が明確となりました。

この頃、「室町幕府は消滅していた」と言われますが、元の幕府官僚たちには優秀な人材も多数いました。

それらが、一気に細川藤孝と共にさらに明智家に合流する流れとなり、明智家は光り輝きました。

我が明智家が、室町幕府の優れた人材たちを
吸収し、さらに輝くのだ!

丹波は非常に重要な地。
攻略は難しいが、なんとか支配してみせる!

ますます上様(信長)のお役に立って、
明智家は、さらに発展するのだ!

飛躍に次ぐ飛躍に、大いに奮起していたのでした。

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