前回は「織田家オールスターの長篠の合戦に不在の明智光秀〜武田オールスターとの対峙・四天王の一人が不在の織田と武田・光秀の大いなる飛躍・足利家との関係〜」の話でした。
正式な政府が消滅した京都:将軍足利義昭の追放
信長が新将軍・義昭を奉じて上洛した1568年直後から、険悪になった信長と義昭の仲。
なんだ、これは・・・
私には実権がないのか・・・
「将軍」というのは
形式的なのだ・・・
勘違いしてもらっては
困る!
将軍家の力の源泉こそ
武力ではないか!
その武力は
織田家が握っているのだ!
くそっ・・・
こんなはずでは・・・
「気にが失墜していた」とはいえ、まだまだ「足利将軍家」の権威と中世的パワーは健在です。
「権威と中世的パワーは健在」だからこそ、信長が一気に京へ攻め込めたのでした。
私の傀儡になって
くれればいいのだ!
なんと!
舐めるなよ!
足利将軍家を
なんと心得る!
その後、たびたび二人の間で闘争が続き、信長包囲網が形成されました。
この信長包囲網を作り出した足利義昭は、かなりの政治力を持った優れた人物だったでしょう。
浅井・朝倉に本願寺に
武田・・・
信長包囲網によって、織田家と信長は一時は絶体絶命の危機に瀕しました。
その包囲網を一つ一つ打破して、辛くも生き延びた織田家に対して、ついに大物が乗り込んできました。
甲斐の虎・武田信玄が総勢2万7,000名余りの精兵を引き連れて、西上作戦を開始したのでした。
我が武田の旗を
京に!
まずは
徳川を潰してみせよう!
徳川家に援軍を送る余裕などない信長は、「ぎりぎりの3,000の援軍」を徳川へ派遣します。
武田の底力を
思い知れ!
ぐわっ!
そして、三方ヶ原の戦いで、徳川・織田連合軍は武田家に大敗を喫します。
「大敗」というよりも「木っ端微塵」となったような、無様な敗北でした。
これは
まずいな・・・
ここで、信長は「東への戦力重点化」を推進しようとしたところで、
む、
無念だ・・・
なんと、武田信玄が病死して、「武田家の西上作戦」は中止となりました。
今だっ!
義昭を追放する!
そして満を辞して1573年、織田信長が足利義昭を追放した信長。
そして、京都は「正式な政権がない状態」となりました。
足利幕府の権威が著しく落ちていたとは言え、前々将軍足利義輝も「将軍の権威」を発揮しました。
そして、将軍足利義昭もまた、合戦の調整に割って入るなど「将軍の権威」はある程度はあったのが事実です。
「落ちぶれていた」とは言え、政権があった方が「はるかに政情は安定化」します。
いかに織田の力が強いとはいえ「中心が何もない状況」というのは、非常に不安でした。
残存する没落した足利将軍家の「中世的パワーと権威」
元々「足利将軍家の権威は大してなかった」という見方もありますが、「権威はあった」のが実情です。
後に、本能寺の変後に権力の頂点に上り詰めた際、征夷大将軍になることを望んだ羽柴秀吉。
義昭様、
形式的に猶子にしてください!
嫌だ!
絶対に嫌だ!
お前は信長の元で、
散々私を苦しめたではないか!
しかも、氏素性定かでもない人間が、
我が名門 足利家に加わるだと・・・
足利を
舐めるんではないわ!
足利義昭に協力を要請しましたが、足利義昭はつっぱねます。
つまり、秀吉が力を持った1585年ごろ、つまり長篠の合戦の10年後ですら、
我が足利将軍家を
なんだと思っている!
「足利義昭には一定の権力があった」のです。
しかも、「追放された」とはいえ足利義昭は「前将軍」ではなく「現将軍」でした。
ついに義昭が信長に
追放されたか・・・
と言っても、簡単に征夷大将軍を
解任するわけにはいかん・・・
朝廷が任命する
将軍はその程度の軽い存在ではないのだ・・・
信長に追放されたとは言え、足利義昭はまだ「前将軍」としての権威をある程度持っていた存在。
この頃の京・山城は、かなり政情不安定だったでしょう。
織田家で飛躍的に重くなる光秀の立場:明智と細川
長篠の戦いには、織田家家臣を総司令官にするわけにはいかない信長。
私自ら
出馬せねばなるまい!
信長が不在となる京は、著しく不安定になります。
その京を安定化させ、西方に睨みを効かせる武将として、
誰が京に
居れば良いか・・・
それは、
光秀しかおらぬ!
光秀が有能であることに加え、「元足利義昭家臣」であることは大事でした。
さらに、足利義昭と疎遠な関係になったとは言え、
細川もおるし、
京周辺の守りは万全!
寄騎の細川(長岡)藤孝の存在も大きかったでしょう。
旧幕臣(光秀は足軽説あり)であった明智光秀・細川藤孝の立場は、この頃急上昇しました。
それは、光秀・藤孝達が率先して「足利幕府をブチ倒した」ことが大きな理由でした。
この頃、室町幕府の勢いが衰えていたとは言え、当時は「現政権」でありました。
細川藤孝に至っては、足利幕府における超名門・細川家の名前を名乗ることを遠慮し、一時的には、
私は「細川」ではなく、
「長岡」です・・・
細川から長岡に改名したほど、大きな衝撃があったのが現実した。
そして、不安定で権威が失墜していたかのようであった室町幕府が本当に壊滅した今、
俺のいない京を任せるのは、
やはり光秀しかいない!
信長は光秀に白羽の矢を立て、光秀を後方に配置し、安心して出陣したのでしょう。
私に
お任せを!
この1575年の時点で、光秀は柴田・佐久間・丹羽らよりも立場はだいぶ下でした。
織田家の重要な戦には、
やはり俺がいなければな!
ところが、柴田・佐久間・丹羽が京にいても、信長は「不安で仕方ない」状況だったのです。
権六(勝家)や五郎左(長秀)では、
心もとない・・・
日本の首都である、京を任された光秀。
私が、信長様の
代わりとなる・・・
急速に立場は重くなり、実質はかなりの地位と権限を任されていたと考えられます。
信長様に能力を高く評価され、
信頼もされているのだ!
織田家で飛躍的に重くなる光秀の立場。
今や、織田家筆頭の家臣となったと言っても良いでしょう。
次回は上記リンクです。