前回は「明智光秀 5〜光秀の大いなる飛躍〜」の話でした。

織田信長が足利義昭を追放して、「無政権状態」となった1573年。
足利幕府の権威が著しく落ちていたとは言え、前々将軍足利義輝にしても、
前将軍足利義昭は、合戦の調整に割って入るなど、「将軍の権威」はある程度はあったのが事実です。

「落ちぶれていた」とは言え、政権があった方が「はるかに政情は安定化」します。
中心が何もない状況、というのは、非常に不安です。
後に、本能寺の変後に権力の頂点に上り詰めた際、征夷大将軍になることを望んだ羽柴秀吉。


義昭様、形式的に猶子にしてください!



嫌だ!絶対に嫌だ!



お前は信長の元で、散々私を苦しめたではないか!



しかも、氏素性定かでもない人間が、
我が名門 足利家に加わるだと・・・



足利を舐めるんではないわ!
足利義昭に協力を要請しましたが、足利義昭はつっぱねます。
つまり、秀吉が力を持った1585年ごろ、つまり長篠の合戦の10年後ですら「足利義昭には一定の権力があった」のです。


信長に追放されたとは言え、足利義昭はまだ「前将軍」としての権威をある程度持っていた存在。
倒幕直後の京・山城は、かなり政情不安定だったのでしょう。


長篠の戦いには、織田家家臣を総司令官にするわけにはいかない信長。



私、自ら出馬せねばなるまい!
信長が不在となる京は、著しく不安定になります。
その京を安定化させ、西方に睨みを効かせる武将として、



誰が京に居れば良いか・・・



光秀しかおらぬ!
光秀が有能であることに加え、「元足利義昭家臣」であることは大事でした。
さらに、足利義昭と疎遠な関係になったとは言え、寄騎の細川(長岡)藤孝の存在も大きい。


「足利幕府をブチ倒した」からこそ、旧幕臣(光秀は足軽説あり)であった明智光秀・細川藤孝の立場が「急上昇した」とも言えます。



俺のいない京を任せるのは、
やはり光秀しかいない!
信長は光秀に白羽の矢を立て、光秀を後方に配置し、安心して出陣したのでしょう。



私にお任せを!
この1575年の時点で、光秀は柴田・佐久間・丹羽らよりも立場はだいぶ下でした。





織田家の重要な戦には、俺がいなければな!
しかし、柴田・佐久間・丹羽が京にいても、信長は「不安で仕方ない」状況だったのです。
日本の首都である、京を任された光秀。



私が、信長様の代わりとなる・・・
急速に立場は重くなり、実質は、かなりの地位と権限を任されていたと考えられます。



信長様に能力を高く評価され、
信頼もされているのだ!