明智光秀 6〜重くなる光秀の立場〜|細川藤孝との関係

前回は「明智光秀 5〜光秀の大いなる飛躍〜」の話でした。

明智 光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

織田信長が足利義昭を追放して、「無政権状態」となった1573年。

足利幕府の権威が著しく落ちていたとは言え、前々将軍足利義輝にしても、

前将軍足利義昭は、合戦の調整に割って入るなど、「将軍の権威」はある程度はあったのが事実です。

足利 義昭(Wikipedia)

「落ちぶれていた」とは言え、政権があった方が「はるかに政情は安定化」します。

中心が何もない状況、というのは、非常に不安です。

後に、本能寺の変後に権力の頂点に上り詰めた際、征夷大将軍になることを望んだ羽柴秀吉。

羽柴 秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

義昭様、形式的に猶子にしてください!

嫌だ!絶対に嫌だ!

お前は信長の元で、散々私を苦しめたではないか!

しかも、氏素性定かでもない人間が、
我が名門 足利家に加わるだと・・・

足利を舐めるんではないわ!

足利義昭に協力を要請しましたが、足利義昭はつっぱねます。

つまり、秀吉が力を持った1585年ごろ、つまり長篠の合戦の10年後ですら「足利義昭には一定の権力があった」のです。

1575年の織田家と諸大名の関係(歴史人2020年2月号 KKベストセラーズ)

信長に追放されたとは言え、足利義昭はまだ「前将軍」としての権威をある程度持っていた存在。

倒幕直後の京・山城は、かなり政情不安定だったのでしょう。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

長篠の戦いには、織田家家臣を総司令官にするわけにはいかない信長。

私、自ら出馬せねばなるまい!

信長が不在となる京は、著しく不安定になります。

その京を安定化させ、西方に睨みを効かせる武将として、

誰が京に居れば良いか・・・

光秀しかおらぬ!

光秀が有能であることに加え、「元足利義昭家臣」であることは大事でした。

さらに、足利義昭と疎遠な関係になったとは言え、寄騎の細川(長岡)藤孝の存在も大きい。

細川 藤孝(Wikipedia)

「足利幕府をブチ倒した」からこそ、旧幕臣(光秀は足軽説あり)であった明智光秀・細川藤孝の立場が「急上昇した」とも言えます。

俺のいない京を任せるのは、
やはり光秀しかいない!

信長は光秀に白羽の矢を立て、光秀を後方に配置し、安心して出陣したのでしょう。

私にお任せを!

この1575年の時点で、光秀は柴田・佐久間・丹羽らよりも立場はだいぶ下でした。

柴田 勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

織田家の重要な戦には、俺がいなければな!

しかし、柴田・佐久間・丹羽が京にいても、信長は「不安で仕方ない」状況だったのです。

日本の首都である、京を任された光秀。

私が、信長様の代わりとなる・・・

急速に立場は重くなり、実質は、かなりの地位と権限を任されていたと考えられます。

信長様に能力を高く評価され、
信頼もされているのだ!

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