明智光秀 8〜奮う光秀 2〜|戦国武将

前回は「明智光秀 7〜奮う光秀 1〜」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

上杉謙信との戦い直前、柴田勝家と喧嘩して「勝手に戦線離脱」した羽柴秀吉。

羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

猿めが!
勝手な真似しおって!

ははー!お許しを!

信長様は、私を必要としているはず。

私を消すはずがない。

「信長は自分を消すことはない」と秀吉は確信を持っていたのでしょう。

織田家の情報部隊の中枢を握っていた秀吉。

さらに、蜂須賀小六らの正規軍ではない傭兵部隊とのコネを持っていたのは、秀吉以外には、ほとんどいなかったのです。

この頃、光秀が丹波攻略に乗り出していました。

織田家の中枢にのしあがったぞ!

自分がメインとなる出番がなかったことに、少なからずストレスを感じていたでしょう。

光秀ばかり目立ちおって!

当時は、後に追放となる佐久間信盛が近畿で大軍団を握っていました。

佐久間信盛(Wikipedia)

当時の織田家は、柴田・佐久間体制とも言える状況でした。

後に信長に追放されたため、佐久間信盛は、その功績の割には非常に低い評価です。

しかし、大坂の本願寺相手に「消極的だった」とは言え、「包囲することが仕事」だったのです。

そして、長年に渡って、数万もの大軍団を率いた力量は並大抵ではありません。

信盛が凡将というよりも、光秀・秀吉・勝家ら織田家の諸将のレベルが高すぎたのでしょう。

本願寺顕如(Wikipedia)

これほどの大軍団を長期に渡って率いた人物は、大名格を除くと、非常に少ない。

佐久間信盛は、評価されている以上の采配・統率能力を有していたと考えます。

織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、信長に大いに目をつけられた光秀。

そろそろ大軍団を任される明智光秀でした。

柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

光秀は「柴田でも佐久間にも任せることができない重責」を信長から命ぜられました。

そして、見事に長篠合戦前後の「織田の西の備え」の仕事を完了します。

光秀よ。
よくぞ、ワシが不在の京を固めた。

信長の覚えはさらにめでたくなり、機嫌良く京都へ帰ってきた信長から労われたでしょう。

光秀も軍団長たる素質があることが、分かった!

そして、佐久間・柴田に続く方面軍、かつ中央を占める軍団を信長から任されました。

佐久間・柴田と同格の宿老 滝川一益。

滝川は、まだ軍団長ではありません。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この時、信長は佐久間追放を、まだ考えてなかったと思われます。

1580年の佐久間信盛追放後には、その麾下の大名の多くが光秀に配属されます。

細川藤孝(Wikipedia)

光秀は、元は上司であり、仲の良い細川藤孝らと共に、丹波攻略の重責を任されます。

丹波平定後の光秀の領地(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

武田家に致命傷を与えた信長はいよいよ、織田家による天下統一後を具体的に考えます。

光秀軍団は、のちの佐久間信盛追放後に、信盛軍団の多くを吸収します。

近畿管領とも言える超重要な立場だ。

細川・筒井と明智の関係を考えた時、光秀軍団の編成を、信長は早い時期に考えていたでしょう。

信長に仕え始めた頃の光秀は、足利義昭と信長の両属的立場でした。

「足利と織田をつなぐ男」としての役目が最重要でした。

光秀は、軍事・政治・調略と
全て優れている。

そして、少しずつ信長に重用されていきました。

足利義昭(Wikipedia)

仕え始めて8年。

この間、光秀を誰よりも見続けてきた信長は、その巨大な能力とセンスに気づきます。

光秀めの能力を上回る武将は、
いないのではないか。

無論、私の方が上だが。

この秀吉も優れておりますぞ!

光秀に全てお任せを。

軍事に政治に知略に、と全て揃った明智光秀。

私が織田家の屋台骨を支えるのだ!

そして、戦国の世を終わらせるのだ!

光秀は、さらなる飛躍を始めようとしていました。

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