前回は「明智光秀 4〜西の押さえとなる光秀〜」の話でした。

織田家オールスターの長篠の合戦に、なぜか不在の明智光秀。
信長は光秀に、目前に迫っていた丹波攻略の戦略・準備等を指示していたかもしれません。

精強を誇っていた武田家ですが、この7年後にあっさり滅亡します。
しかし、長篠合戦時の武田家は、多くの名将がバリバリの現役。

なかでも、超強力な騎馬隊を率いる「赤備えの男」がいます。

「天下統一」を推進するためには、「早めに武田家に可能な限りの打撃」を与える必要があります。
光秀・明智軍が鉄砲に優れていたら、ここに呼ぶのが最善でしょう。
結果的に明智軍がいなくても、織田家は大勝します。
どうもここが不可解です。
「光秀といえば鉄砲」というのは事実とは少し異なった誇張であったのか。
あるいは「鉄砲の明智軍」を長篠に出陣させるよりも、光秀と明智軍を西に配置する、他に優先すべき理由があったのか。

両方の要素があったのでしょう。
長篠の戦いのわずか2年前の1573年。
織田信長が足利義昭を京都から追放し、足利幕府を解体しました。

この時点で「足利幕府は消滅した」のですが、足利義昭は毛利家に保護されます。
毛利家の領土である鞆で、「打倒信長」の暗躍を続ける足利義昭。
といっても、実態はよく分からず、足利義昭が「吠えていただけ」とも言えます。
「鞆幕府」の権威や権限に関しては、疑問符がついています。

織田家が突出していたとは言え、武田・上杉・北条・毛利という大勢力が、まだまだ大勢います。
そして、顕如率いる一向一揆もまだガンガン戦っている状況。

それらの勢力に、グルッと包囲されている織田家。
長篠の合戦当時は、「まだどうなるか分からない」状況です。
「前政権が倒されて、明確な政権がない」微妙な時期でした。

後世、愚将のように描かれている武田家当主 武田勝頼。
実はかなりの勇将で、武田家の版図は武田勝頼の代で最大となります。
実際、徳川家康は武田勝頼に押しまくられ、かなりの領土を失っていました。
「ひょっとすると、武田が織田・徳川を倒すかも」という希望的観測もあったでしょう。
その中、光秀は長篠へ向かうのではなく、京で西を守り、丹波侵攻の準備に専念していたのです。