前回は「信長に上手く仕えた明智光秀と羽柴秀吉〜突然追放された織田家の中核佐久間信盛と林秀貞・「日本の覇王」を目指した信長の視線〜」の話でした。
織田の天下が見えてきた時の異例すぎる追放劇
1575年に長篠の戦いで武田に痛撃を与えた信長。
武田家は、山県昌景・内藤昌豊・馬場信春らが討死して致命傷を負いました。
実は武田勝頼は非凡な勇将であり、その後活発に活動して、武田家最大の版図を築きました。
武田の最大版図を
築いたぞ!
最大版図達成しましたが、後世の目から見れば、「武田家の退潮」は明白な事態でした。
さらに、1580年には宿敵・本願寺顕如を屈服させた信長。
もはや「織田家の天下」が確実に視野に入ってきました。
織田に敵対する大名としては、武田・上杉・毛利など多数いましたが、彼らが束になってかかっても織田には勝てません。
この中、突如追放されたのが織田家で長年宿老であった林秀貞・佐久間信盛でした。
二人は文字通り「織田家の中核的存在」でした。
なぜ、私が追放されねば
ならないのですか・・・
それまでの信長の所業からすれば、後世の視点では「理解できる」この二人の追放劇。
ところが、この二人の織田家における貢献度は群を抜いており、信長といえども「超異例」な事態でした。
優れた武将であった佐久間信盛と林秀貞
かなり低く評価される佐久間信盛の軍事能力。
実際の軍事的能力は、佐久間信盛もかなり高かったようにも感じます。
あの本願寺と大軍勢を率いて長年対峙するのは、かなり大変であったと思います。
そして、ほとんど語られない林秀貞(通勝)の政治・外交能力。
弱小とは言えなくても、中程度の勢力に過ぎなかった織田家の内外を長年統括してきた林秀貞。
林は「非常に優れた武将」とは言えなくても、急速に膨張した織田家の内部を調整してきました。
そして、重きを成して、急速に膨張する織田家を統括するだけの力量はありました。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
林秀貞 | 1513年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
佐久間信盛 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
信長の21歳も年上の林秀貞は、「織田家随一の老臣」として、織田家を支え続けました。
織田家が勃興した1567年頃までは、林は「織田家の全てを知っていた」人物だったでしょう。
そして、織田家の政治の中枢を抑え続けてきたのが林秀貞でした。
長篠の合戦が起きた1575年では63歳(数え年)となっていた林秀貞。
流石に、当時としては高齢であり表舞台から遠のいていたとはいえ、それまでの貢献は抜群でした。
尾張の名族出身で織田家を支え続け、相応の軍事指揮能力を有していた佐久間信盛は最大軍団を率いました。
本願寺の連中は
異様に戦意が高い・・・
ここは、包囲して持久戦に
持ち込むのがベストだろう・・・
士気が高く、鉄砲を多数有していた本願寺は天下最強の軍隊でした。
正面切って戦っても「負ける可能性の方が高い」ので、大軍団で本願寺を包囲し続けた佐久間信盛。
彼の軍事能力は一定以上のレベルであり、優れた武将であったと言って良いでしょう。
「戦国武将の責務」を卓抜たる能力で遂行し続けた明智光秀と羽柴秀吉
対して、急速に出世してきた秀吉と光秀。
非常に優れた力量を持ち、いずれも日本の王たる力量を持つ秀吉・光秀。
金ヶ崎の殿軍戦では、二人で協力して浅井・朝倉を撃退しました。
織田の家を、
しっかりと守るのだ!
若き頃から、彼らが活躍できたのは、林・佐久間らが「家中を取り仕切っていたから」ともいえます。
さらに、信長という非常に使えにくい君主を、長年しっかりと補佐し続けたのが佐久間・林でした。
余が、全てを
決定するのだ!
そして、急膨張する織田の家臣団に対して、長年の間「睨みを効かせ続けた」のが林・佐久間だったのです。
独断専行の極みとも言える織田信長に対して、秀吉・光秀が「縦横無尽に仕事ができた」こと。
それは「林・佐久間がいてこそ」だったのが織田家の実情でした。
性格に関しては、「秀吉=陽」に対して、「光秀=陰」の様に明確にイメージが作られています。
これは秀吉の後世の創作であり、実際の秀吉はもう少し暗い感じのように感じます。
俺が出世するためには、
他の織田家諸将をどかさなければ!
また、「暗い優等生」みたいに描かれることが多い光秀は、実はもう少し明るいイメージだったようにも思います。
のちに豊臣秀吉となった後に、起こした事件が残虐すぎる秀吉。
豊臣秀次事件・千利休事件・文禄慶長の役の際の対応を考えるとき、秀吉という人間の本性が垣間見えます。
秀吉の本性は実はかなり悪どく、残酷な人柄であったように思います。
そして、エリート優等生の印象が強い明智光秀もまた、延暦寺焼討を「買って出た」と言われています。
信長様!
延暦寺を焼き討ちなさるとは!
どうか
お考え直しください!
光秀が信長を「諌めた」という話は作り話であり、光秀の実像は延暦寺焼討を率先して行ったのでした。
それは「光秀が冷酷」ではなく、「戦国武将として当然のこと」でもありました。
そして、「戦国武将として当然のこと=責務」を卓抜たる能力で遂行し続けた人物こそ、明智光秀と羽柴秀吉でした。
我こそ、
織田家随一の仕事人、羽柴秀吉!
私が織田家で最も
優れた明智光秀!
素性定かではない二人が「織田家二強」となって出世競争して争い続け、最後は本当に決戦した歴史。
この歴史となった最大の理由は、信長の「異常なまでの天才性」だったのでしょう。
次回は上記リンクです。