前回は「「徳川幕府の幕引役」を受けた徳川慶喜の実像〜「徳川の終わり」を暗示した桜田門外の変・曖昧な権限だった特別職「将軍後見職」〜」の話でした。

御三家末席・水戸出身の慶喜:吉宗が生んだ「将軍職は紀伊」の流れ

1866年に念願の将軍職に就任した徳川慶喜。
徳川幕府第十五代将軍となり、本来は「第十四代将軍になるはずだった」慶喜。
一橋慶喜前将軍家茂様を
一生懸命支えたのだが・・・
| 名前 | 生年 |
| 徳川慶喜 | 1837 |
| 徳川家茂 | 1846 |
そもそも、9歳も年下であり、明らかに慶喜の方が頭脳も人物も上であったにも関わらず、



家茂様が紀伊出身であり、
私は水戸だから、か・・・





私が第八代将軍
徳川吉宗である!
徳川将軍家の嫡流は、第七代で絶えてしまい、代わりに御三家・紀伊から吉宗が将軍に就任しました。
| 家 | 石高(約) |
| 尾張徳川 | 62万石 |
| 紀伊徳川 | 56万石 |
| 水戸徳川 | 35万石 |
この時、「御三家筆頭の尾張徳川」と「御三家次席の紀伊徳川」の間で熾烈な「裏の戦い」が繰り広げられました。
この「将軍職をめぐる戦い」は、どう考えても尾張の方が分が良い戦いでした。
そもそも、御三家の中で尾張徳川は「最初に誕生し、石高も最大」の存在でした。


さらに、なんといっても、織田家の力の根源となった国であり、初代将軍・家康の故郷・三河の隣でした。
戦国期において尾張の存在感は絶大でしたが、江戸期に入り、だいぶ存在感が後退した尾張。
尾張・清洲城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
「存在感低下」とは言っても、単独の国で60万石を超えるという「極めて貴重な国」であったのが終わりでした。
ところが、吉宗によって「将軍職は紀州」という流れが出来てしまいました。
「十五代将軍」に不吉な影を感じた徳川慶喜:水戸+一橋のパワー


吉宗によって、「将軍は紀伊」となりましたが、吉宗はさらに決め手をつくりました。



将軍家は
我が紀州が守るが・・・



念の為、
御三家の他に御三卿を設置する!
田安徳川家(田安家):10万石
一橋徳川家(一橋家):10万石
清水徳川家(清水家):10万石
新たに「御三卿」と呼ばれる家を3つ作った吉宗。
それぞれ「田安」徳川家、「一橋」徳川家、「清水」徳川家と呼ばれる3つの家は、10万石の格式でした。
ここで大事なことは、これら3つの家が「実際には領土がなく、格式のみ」であったことです。
つまり、事実上「架空の家柄」を生み出したのが将軍・吉宗でした。
ある意味で、鮮やかな政治力であったと思われます。



水戸は御三家末席で
「お呼びでない」ようだから・・・



主流である紀州・吉宗様が
設置した一橋家に入った・・・
徳川家に生まれた徳川慶喜は、「お呼びでない」水戸藩であることに危機感を感じていたのでしょう。





自慢ではないが、
我が子・慶喜の優秀さは際立っておる・・・



慶喜ならば、
将軍家になっても良いだろう・・・



我が子の贔屓目ではなく、
徳川のために、そう思うのだ・・・



そして、一人くらい
我が水戸から将軍を出したい・・・
こう考えた慶喜の父・斉昭は、慶喜を一橋家に入れました。
いわば、「水戸+一橋」のパワーによって将軍家を狙った斉昭。



あの徳川斉昭様って
好きになれない・・・
ところが、徳川斉昭自身が女癖の悪さなどから、大奥での評判は最悪であり、大問題でした。



どうしても斉昭様は
好きになれないけど・・・



確かに、慶喜様は
ハンサムだし、優秀でいいかも・・
ルックスが良く、若い頃から聡明だった「一橋」慶喜は、大奥でも高評価でしたが、



でも、やっぱり、
「斉昭様の子」はイヤ!
「斉昭の子」が致命的であり、慶喜は大奥からはよく思われない存在となってしまいました。
このような流れの中、ようやく第十五代将軍に就任した慶喜でしたが、



どうにも、
我が徳川家の力がダウンしている・・・
徳川家のパワーダウンに、極めて強い衝撃を受けていました。
自分自身の能力には、極めて高い自信を持っていた慶喜でしたが、



どうにか、ならぬか・・・
他の幕府はどうしたのだろうか・・・
| 年号 | 出来事 |
| 1185年 | 源頼朝、守護・地頭を設置 |
| 1192年 | 源頼朝、征夷大将軍に就任:鎌倉幕府創設 |
| 1333年 | 鎌倉幕府滅亡 |
| 1336年 | 足利尊氏、征夷大将軍に就任:室町幕府開設 |
| 1573年 | 室町幕府滅亡(諸説あり) |
| 1603年 | 徳川家康、征夷大将軍に就任:江戸幕府開設 |
| 1867年 | 徳川幕府滅亡(大政奉還) |
我が国における「三つ目の幕府」であった徳川幕府。
幕末までは、「幕府」という名称はなかった説が有力ですが、「幕府のような国家体制」として三番目でした。
そして、慶喜が将軍に就任した1866年までの間、徳川幕府は260年以上続いた稀有な政権でした。





そういえば、前の幕府の
室町幕府は十五代で終わったな・・・
「前幕府」であった室町幕府は、第十五代足利将軍 足利義昭で「ジ・エンド」となりました。
ここで、自身が「第十五代将軍」であることに、不吉な予感を慶喜は感じたでしょう。
ある種の「嫌な予感」を。


