前回は「画期的な「斎藤家+織田家」を実現した清洲〜「超異質な大名」だった斎藤道三・「美濃弱し」と判断した信秀〜」の話でした。
「戦国の大梟雄」信秀と道三の打算的同盟

尾張守護代が内部抗争で分派した「清洲」織田家の重臣だった信長の父・信秀。
・尾張北四郡:岩倉織田家(伊勢守)
・尾張南四郡:清洲織田家(大和守)


東海の大都市である
清洲を押さえて、我が織田家を発展させるぞ!
「守護代の家臣」の分際ながら、主人である清洲織田家を上回り、尾張半国を支配下にしました。


尾張「南部」を主に支配下に納めた信秀の領土は、一部「北側の美濃」と接していました。



尾張北部の
岩倉織田家を攻めても良いが・・・



ここは、美濃に足掛かりを
作って、尾張と美濃二カ国の太守へ!
調子に乗った織田信秀は、北の隣国・美濃に侵攻しました。





信秀ごとき、
この道三の敵ではないわ!
ところが、老獪であった斎藤道三の卓抜した采配によって、織田信秀軍は木っ端微塵にされました。



なんと、
なんと道三軍は強いものよ・・・
そして、ここで「戦国の梟雄」であった織田信秀と斎藤道三。



道三とは
仲良くした方が良さそうだ・・・



東には今川がいて、
東と北を両方攻めるのは無理だ・・・



我が美濃は四方に
敵がおる・・・



尾張の織田とは
仲良くしても良いだろう・・・
利害が一致した織田と斎藤は、「婚姻」によって同盟を結ぶことになりました。


そして、いよいよ「戦国の最高スター」である織田信長が世に出てきました。
名前 | 生年 |
斎藤 道三 | 1504年(諸説あり) |
織田 信秀 | 1510年 |
織田 信長 | 1534年 |
帰蝶(濃姫) | 1535年 |
「戦国の大梟雄」信秀と道三の打算的同盟の結果が、信長と濃姫の結婚でした。
1549年に成立した「織田+斎藤同盟」の証として、信長と濃姫の結婚が成立しました。
織田信秀にとっては6歳年上の大ベテランであった斎藤道三は、この時46歳(数え年)でした。
美しい水都だった清洲城:「銭を運ぶ」水運を重視した織田信長


清洲城内には、信長の頃の清洲城を中心とする清洲の街の復元模型が展示されています。
美濃から尾張に流れる川を活かし、さらに広大で広い堀をもつ清洲城は、美しい水都でした。
そして、清洲城は「水城のはしり」とも言える城であったと考えます。
のちに「水城」と呼ばれる「水路を軸とした城」が多数生まれました。


琵琶湖河畔に建てられた明智光秀の坂本城は、「未来的な水都」であったと考えられています。
坂本城に続き、亀山城でも水都を生み出した光秀の話を、上記リンクでご紹介しています。
後の時代には、多くの水城が築かれましたが、水城はかなり少数派です。
そして、1550年頃は極めて少数派であったはずの水城だった清洲城。
この清洲城と清洲の街の復元模型や、多分に織田信長への憧憬が含まれていると思われます。
この「信長への憧憬」を差し引いても、確かに「川が多数あった尾張」の中心都市だった清洲。
実際に「ここまで美しい街並であったか」は別として、川や水運を活かした「水の都」だったでしょう。



我が織田は、
津島湊からの運上金で豊かになった・・・
軍事力が際立っていた織田信秀は、政治や経済に関しても一級の人物でした。
その信秀は、「守護代の家老」に過ぎなかった自分の家が力をつけてゆくプロセスを熟知していました。



「モノの流れ」によって
経済が動く・・・



「モノの流れ」が「銭の流れ」となって
我らの力の根源となってゆく・・・
この「銭の流れ」を感覚的に理解していた信秀は、水運を極めて重視したでしょう。


そして、この信秀の「水運を重視した経済感覚」は、信長に引き継がれました。


この「織田+斎藤同盟」の頃、16歳ほどだった少年から青年になる頃の信長は、



我が織田家が
現金を多数持っている理由・・・



それは「モノの流れ」と
「銭の流れ」を掌握していることだ・・・
元服の頃であり、柔軟な思考力で「経済の本質」を信長流に理解して飛躍させました。


その信長が「撰銭令」を出した話が、清洲城内で紹介されています。
当時、経済が発達されるにつれて、欠けたり割れたりする銭は「悪銭」と呼ばれて忌避されました。



良貨と悪銭が混ざって、
経済が混乱するのは、非常に良く無い・・・
「銭の流れ」に逆行する存在だった「良貨と悪銭」。



俺ら商人は、
悪銭はいらない!



この悪銭に
価値があるのか不明だからだ!
確かに、「割れたり欠けたりしていた」悪銭に「どの程度の価値があるのか」は不明です。
「価値が不明」なもので取引できるはずがないのであり、経済の本質を見極めていた信長。



良貨と悪銭の
交換比率を、この信長が定める!
「良貨と悪銭の交換比率」を決定して、織田領内で徹底しました。
その結果、織田領の商人たちは、



「良貨と悪銭の交換比率」が、
定まっていれば安心だ!
安心して悪銭も受け入れるようになり、「銭の流れ」がスムーズに進みました。
その結果、織田領内では経済と銭がスムーズに流れ、富がどんどん蓄積されたのでした。
美しい水都であった清洲城は、織田家が戦国最強となった秘訣が隠されていたのでした。