「真の小京都」であった唯一つの典雅な都市・一乗谷〜朝倉家の力の源泉「海と港」から遠い「谷城」の国都・中興の祖朝倉敏景が築いた街〜|越前一乗谷5・朝倉家の夢の跡

前回は「谷が生み出した優美な都市・一乗谷〜発掘された往時の都市の光景・山と空が美しき都市・朝倉将棋と大戦略・酔象と太子が生む複雑怪奇な面白さ〜」の話でした。

目次

中興の祖・朝倉敏景が築いた街

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

復元された一乗谷の街並をゆっくりと歩いて散策した後は、いよいよ朝倉義景の館跡へ向かいます。

かつての唐門があり、一乗谷の街との間には優美な川があります。

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

綺麗な川には多数の鯉が泳いでいて、一乗谷の街の高貴な雰囲気を醸し出していました。

知覧武家屋敷でも鯉が泳いでいましたが、これほど多数の鯉を見ることは、なかなかありません。

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

唐門に入ってゆくと、朝倉家の代々の当主たちが滞在していた館跡がきれいに残っています。

室町時代、越前で勢力を伸ばしていた朝倉家は第七代・朝倉孝景の時代に飛躍しました。

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朝倉家第七代当主 朝倉孝景(Wikipedia)

この朝倉孝景が室町殿・足利将軍家に
認められて・・・

ついに、越前守護代に
朝倉家は任命されたのだ!

越前守護は斯波氏でしたが、かなり勢力を落としていたため、事実上「越前の主」となった孝景。

時は応仁の乱の頃で、1471年に西軍から東軍に寝返った朝倉孝景。

「海運・物流の巨大基地」であった越前を支配下に収めていた朝倉家。

おいっ!
朝倉が東軍に寝返ったらしいぞ!

な、なにっ!
北の海(日本海)からの物流が途絶えてしまう・・・

敦賀などの良港を持ち、京への巨大物流を握っていた朝倉の「寝返り」は大きな影響でした。

そして、同時期に「一乗谷に城や街を築き始めた」と伝わる朝倉孝景。

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

その後、四代目の第十一代・朝倉義景の代に朝倉家は滅亡するまで、一乗谷は繁栄を極めました。

朝倉義景の墓所もあり、繁栄から滅亡への歴史が感じられます。

朝倉家の力の源泉「海と港」から遠い「谷城」の国都

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

さらに進むと、湯殿跡庭園があり、立派な庭園の石が立ち並びます。

これらの石の全てが本当の遺跡・出土品なのかどうかは分かりませんが、大変立派です。

まさに、往時の「優雅極まりない館・武家屋敷」を思い起こさせます。

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

このあたりになると、少し小高い位置にのぼり、一乗谷の街並が見下ろせ、空が綺麗に映えます。

ちょうど、当主の館を真下に見る位置であり、優雅な建築美を上から楽しめたでしょう。

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

建物跡として、当時の建築の基礎がきれいに残っています。

現代は木造住宅も鉄筋コンクリートで基礎が作られますが、一昔前まで基礎は石が多かったのです。

そして、それらの基礎となる石が、几帳面なほど均等に丁寧に造られているのが分かります。

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

こうして、朝倉家代々が繁栄を極めた一乗谷を一通り歩きました。

「谷間の街・都市」として、非常に高名な一乗谷。

室町時代〜戦国時代における国都・国府は、平城か山城が多いです。

この一乗谷は、分類すると「平城」になりそうですが、あえて表現すれば「谷城」となります。

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関東公方の統治国(新歴史紀行)

鎌倉公方が「別に統治した」関東などと比較すると、「京都の隣」と表現しても良い越前。

この越前は山も多いですが、やはり「日本海に大きく開けた地形」が大きな特徴です。

そして、猛将であり大政治家でもあった朝倉敏景が、わざわざ谷に国都を置いた事実があります。

朝倉家の力の源泉である日本海側の敦賀や三国湊から、一乗谷はそれほど近くないです。

「日本海の物流」が「朝倉家の経済力の源泉」であったならば、

ここ一乗谷から、
私は越前を治める!

本来ならば、海の近くに当主がいるのが良さそうです。

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戦国大名 朝倉義景(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

我が朝倉家は守護代の家柄であり、
越前一国を納めているのだ!

越前は石高が高く、さらに海と京を
結ぶ大動脈の根源を押さえているのだ!

朝倉敏景以来、一乗谷の街・都市・城は100年ほどの間、繁栄を極め続けました。

「真の小京都」であった唯一つの典雅な都市・一乗谷

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

それにしても、谷間の都市は風光明媚で美しいですが、「実用的かどうか」というと疑問です。

それでもなお、「谷の都市」にこだわり続けた朝倉氏。

それは、興隆の祖である第七代・朝倉敏景の名声が強かったのが大きな理由であり、

敏景様が一乗谷を
国都としたから、変える必要はなし!

と、代々の朝倉家当主は考えていたのでしょう。

この私が一乗谷の風景が
気に入ったのは、大きな理由がある!

「谷間の都市」だから、盆地にある
京に似ている光景が、なんといっても良い!

応仁の乱で荒廃したとはいえ、当時は「抜群の大都市」だった京。

都市の大きさで比較すれば、繁栄していたとはいえ、一乗谷の規模は京とは比較になりません。

我が越前の国都は、どこにしようと、
京よりも規模が遥かに小さい・・・

だが、私は今日の雅な光景を
この越前に築いて「朝倉の街」をつくりたい・・・

盆地に都市を築いても「京の景観」には
ならないが、「一乗谷」ならば「京の景観」になる!

おそらく、「京の景観」を求め続けたのが、典雅な大名・朝倉家だったのでしょう。

「小京都」と呼ばれる都市は
他にもあると聞くが・・・

「京の景観」を持つ「本当の小京都」は
ここ一乗谷だけなのだ!

室町時代〜戦国時代にかけて、繁栄を誇った大内氏の周防、今川氏の駿河などが「小京都」として有名です。

我が一乗谷は、まさに「京そのもの」の
景観であり、「本物の京」からも近いのだ!

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一乗谷朝倉氏遺跡(新歴史紀行)

この「京の都市空間を模した」唯一つの典雅な都市を目指したのが、一乗谷だったのでしょう。

だから、我が朝倉家は
他の大名とは違う存在で、別格なのだ!

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戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

守護代ですらない、
信長の織田家などと一緒にするな!

織田など、我が朝倉家と比べたら、
単なる田舎者なのだ!

この「唯一つの真の小京都」を持っていた朝倉家のプライドは、異常なほど極めて高かったのは当然でした。

ところが、「相手が強過ぎた・悪過ぎた」ため、滅亡してしまった朝倉家と一乗谷の街。

むうう・・・・
まさか、な・・・

日本で唯一つの「小さな京都」を楽しめる、一乗谷朝倉氏遺跡。

歴史好きの方は、ぜひ訪問してください。

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