前回は「帝国海軍の「希望の星」伊藤整一〜海軍省と軍令部と連合艦隊全てで要職・優等生から帝国海軍へ・日清日露の戦いと高揚〜」の話でした。

海軍大学校から米国駐在武官へ

1890年に生まれた伊藤整一は、小さな頃からずっと優等生で通しました。
設置年 | 大学名 |
1868年 | 陸軍士官学校(前身の兵学校) |
1869年 | 海軍兵学校(前身の海軍操練所) |
1877年 | 一高・東京帝国大学(帝国大学) |
1897年 | 三高・京都帝国大学 |
当時、一高(現代の東大)、三高(現代の京大)と同等に難関であった陸士と海兵。
いわば、日本全国から優秀な生徒が集まる海兵において、

一生懸命勉強して、
海軍でお役に立とう!
1911年、伊藤整一青年は15位の好成績で卒業しました。


卒業席次 | 名前 |
5 | 山県 正郷 |
15 | 伊藤 整一 |
17 | 高木 武雄 |
21 | 西村 祥治 |
26 | 阿部 弘毅 |
45 | 角田 覚治 |
85 | 原 忠一 |
? | 志摩 清英 |
40期と共に、ちょうど第二次世界大戦の真っ只中に、「権限を持つ立場」となった39期卒業生たち。
39期には、司令官クラスを大勢輩出しました。
戦艦を率いて戦った西村司令官や、志摩司令官。
空母機動部隊を率いて戦った原司令官や角田司令官は、特に著名です。
風貌からして、前線の指揮官よりは、軍令部や海軍省に向いていたと思われる伊藤整一。
組織 | 職務 | ||
海軍省 | 軍政・人事 | ||
軍令部 | 軍令 | ||
連合艦隊 | 最前線の海軍戦闘部隊 |
伊藤整一は、海軍省・軍令部・連合艦隊のそれぞれで、重要な職務についた稀有な存在でした。
1923年に「選りすぐられたエリート」のみが進学出来た海軍大学校を次席卒業。
そして、少佐に就任した伊藤整一は、



伊藤整一よ、
中米武官を命ずる!



はっ、
米国に向かいます。
海軍省の命令により、伊藤は米国に向かいました。
スプルーアンスと「似た者」同士だった伊藤整一:山本五十六の米国での教え


そして、米国に到着した伊藤整一は、精力的に業務に取り組みました。



これが、
米国か・・・





おうっ!
伊藤、よく来たな!



山本さん!
よろしくお願いします!
ちょうど、この頃、米国大使館付武官として、二度目の米国駐在をしていた山本五十六。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
39 | 伊藤 整一 | 大砲 | 軍令部次長 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 福留 繁 | 大砲 | 軍令部第一部長 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
後に、短期間ですが、山本連合艦隊司令長官に連合艦隊参謀長として仕えることになる伊藤。
そして、伊藤が軍令部次長になった後も、山本と伊藤は強い関係がありました。
当時、37歳頃だった伊藤にとって、7期上であった山本は、色々な面倒を見ました。



伊藤よ!
ここ米国では、英語だけ使え!



日本語は使うな!
英語力が伸びんからな!



はいっ!
分かりました!
米国研究に一生懸命であり、英語も必死に学んでいた山本先輩のアドバイス。
伊藤にとって、すでに海軍内に雷名が轟いていた山本の存在は大きかったでしょう。
この米国駐在では、山本との出会いが最大のものでしたが、もう一つ大事な出会いがありました。





Hello,
Ito!



Hello,
Raymond!
名前 | 生年 | 海兵卒業席次 |
山本 五十六 | 1884 | 11 |
チェスター・ニミッツ | 1885 | 7 |
レイモンド・スプルーアンス | 1886 | 21 |
小沢 治三郎 | 1886 | 45 |
伊藤 整一 | 1890 | 15 |
スプルーアンスとは、4歳違いで、比較的歳が近かった伊藤整一。
そして、風貌からして、明らかに性格が似ている二人は、意気投合しました。


米海軍提督の中でも、一際温厚そうな雰囲気のスプルーアンス。
伊藤が米国に派遣された1927年頃は、日米関係が良好な時代でした。
第一次世界大戦後の「束の間の平和」な時代に、似たもの同士の二人は親交を持ちました。
そして、第二次世界大戦末期に、対峙することになった伊藤とスプルーアンス。
伊藤整一司令官の最後の決戦となった「大和特攻」における、最後の米海軍の敵艦隊。
その艦隊は、スプルーアンス司令官率いる空母部隊でした。