前回は「帝国海軍の模範生・伊藤整一の実像〜穏やかで心身ともに優れた青年・軍令の要軍令部次長へ・永野軍令部総長の大いなる期待・大先輩山本五十六長官との直接対決・予感した戦艦大和との運命〜」の話でした。

優等生から帝国海軍へ:日清日露の戦いと高揚

1890年に福岡県で生まれた伊藤整一。
海軍兵学校(海兵)で一期下の宇垣纏と生まれは同年です。
現代の大学に相当する海兵の採用年齢は、当時「16歳〜19歳」だったため、学年と年齢に少しズレがあります。
1890年は、ちょうど大日本帝国憲法が施行された年であり、

我が大日本帝国は、
これから国家が発展してゆき・・・



やがては欧米と
肩を並べるのだ!
大日本帝国が、メキメキ力をつけていた時代でした。


特に武士や軍人の家系ではなく、一般的な家庭に生まれた伊藤整一が四歳の時に、



我が大日本帝国が
清国に打ち勝った!
長年「アジアのボス」であり、日本にとっては「兄」のような存在であった中国(清国)に勝ちました。



とにかく
一生懸命勉強しよう!
顔つきからして「誠実そのもの」であり、穏やかな人柄だった伊藤整一少年は、一生懸命勉強しました。



将来は、大日本帝国の
ために有為の人材になる!
おそらく、10代の前半には、伊藤整一少年は「国家に役立つ人物像」を考えていたでしょう。
そして、ずっと優等生を貫き通していたと思われます。


伊藤整一少年が14歳の頃には、日露戦争で大日本帝国がロシア帝国に勝ちました。



我が帝国が
列強の仲間入りだ!
そして、「目上の存在」だった欧米列強の仲間入りという「悲願」を果たした日本。


陸海軍で死闘を演じた日露戦争では、日本海海戦における帝国海軍の活躍が目立ちました。
複雑な陸軍の死闘と比較して、一般国民に「分かりやすかった」のが日本海海戦と東郷平八郎でした。



よしっ!
僕も帝国海軍目指そう!
そして、伊藤誠一少年は海軍のエリート海軍兵学校を目指しました。
帝国海軍の「希望の星」伊藤整一:海軍省・軍令部・連合艦隊全てで要職歴任


そして、当時超難関だった海軍兵学校(海兵)に合格した伊藤整一少年。
設置年 | 大学名 |
1868年 | 陸軍士官学校(前身の兵学校) |
1869年 | 海軍兵学校(前身の海軍操練所) |
1877年 | 東京帝国大学(帝国大学) |
1897年 | 京都帝国大学 |
1907年 | 東北帝国大学 |
1911年 | 九州帝国大学 |
1918年 | 北海道帝国大学 |
1924年 | 京城帝国大学(韓国、のちに廃止) |
1928年 | 台北帝国大学(台湾、のちに廃止) |
1931年 | 大阪帝国大学 |
1939年 | 名古屋帝国大学 |
現代も「旧帝大」という言葉が残っていますが、戦前には帝国大学がありました。



帝国に役立つ
人材を育てるのが帝国大学だ!
私立が多い欧米と比較して、「国家の影」が濃厚であった帝国大学は、当時も最難関でした。
伊藤整一少年が若き頃は、帝大は東京帝国大学(東大)か京都帝国大学(京大)のみがありました。
当時も、東大と京大は最難関でしたが、「国家に尽くす」軍人は最もエリートで最難関でした。
陸軍士官学校(陸士)と海軍兵学校(海兵)は、猛烈な競争倍率であり、東大より難関でした。



カイヘイゴウカク、
イインチョウ・・・



よしっ!
海兵合格だ!
海兵合格の電報が届き、大いに喜んだであろう伊藤整一少年。
ここで「委員長(イインチョウ)」は、海軍次官を指します。
入学時の成績は不明ですが、おそらく20番以内の好成績で海兵39期に入学した伊藤整一少年。
そして、海兵39期を15位の好成績で卒業しました。


大東亜戦争・第二次世界大戦の頃に、ちょうど脂が乗る年齢だった39期卒は多数の将星を輩出しました。
卒業席次 | 名前 |
5 | 山県 正郷 |
15 | 伊藤 整一 |
17 | 高木 武雄 |
21 | 西村 祥治 |
26 | 阿部 弘毅 |
45 | 角田 覚治 |
85 | 原 忠一 |
? | 志摩 清英 |
典型的猛将であった角田覚治や原忠一がいる中、大変な好成績で卒業した伊藤整一。
そして、少尉候補生となった伊藤整一は、順調に帝国海軍で出世しました。



よしっ、次は
海軍大学校だ!
現代の「大学院を越える機関」であった海軍大学校には、一握りの人物しか入学できませんでした。
さらに、海軍大学校の次席(2位)で卒業した伊藤は、その人柄もあって、



伊藤は、
海軍の要になる人物だな・・・
帝国海軍上層部から、ずっと目をかけられました。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
37 | 小沢 治三郎 | 航空 | 南遣艦隊司令長官 |
39 | 伊藤 整一 | 大砲 | 軍令部次長 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 福留 繁 | 大砲 | 軍令部第一部長 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
海軍の将官たちは、広い視野を持つためにも、海軍省・軍令部・連合艦隊勤務を異動しました。
概ね2年に1度程度、大きな異動がありました。
例えば、山本五十六は主に海軍省にいて、最後に連合艦隊に異動しました。
組織 | 職務 | ||
海軍省 | 軍政・人事 | ||
軍令部 | 軍令 | ||
連合艦隊 | 最前線の海軍戦闘部隊 |
通常は、これら海軍省・軍令部・連合艦隊のうち「二つを経験」が多い中、



海軍省では
人事局長になり・・・



連合艦隊では、艦長・司令官から
連合艦隊参謀長となり・・・



軍令部では次長と
なった・・・
海軍省・軍令部・連合艦隊の全てにおいて、要職についた数少ない将星の一人だった伊藤。
帝国海軍の「希望の星」だった伊藤は、最後に「帝国海軍の希望」を一身に背負うことになります。