前回は「薩摩の海と島津家〜島津薩摩藩と日本の歴史・戦国末期に勃興した名門島津家・四カ国の守護・九州全土制覇寸前から薩摩へ逆戻り・維新でほとばしらせた猛烈なパワー〜」の話でした。
「島国日本」の様々な島の潜在力:14,000以上の島を持つ日本

日本は島国であり、「島国日本」と呼ばれることが多いです。
その一方で、本州でも九州でも北海道でも、海から遠い場所に住んでいると、

確かに地図で見ると
日本は島国だが・・・



日常生活の中では、
島国であることを感じることは少ない・・・
日常生活の中で「島国に住んでいる」感覚を得ることは少ないと考えます。
これは東京在住の筆者もそうですが、日本の様々な島を訪れるたびに、



日本の島々は、
大変素晴らしい・・・
訪れた島は限られていますが、どの島を訪問しても「それぞれの島の魅力」を大いに感じます。


「鉄砲の種子島」を訪問した時の話を、上記リンクでご紹介しています。
沖縄以外に、淡路島・五島の福江島や中通島・屋久島などを訪問してきましたが、



種子島の島も海も
本当に美しかったです。
もともとは「歴史好き」として、「鉄砲」が目的でしたが、種子島の潜在力に大いに感銘を受けました。
近年まで、1987年の調査に基づき、日本には「6,852の島がある」とされていましたが、



我が日本において、
「周囲長さ0.1km以上」を島と呼ぶ!



その結果、我が日本には、
14,125の島があります!
「島の基準」を変更した海上保安庁の新たな調査によって、一気に倍増しました。
この「14,125の島」の中には、当然のことながら、無人島が多数含まれますが、



実は、有人島は
416もあります。
島の種類 | 数 |
有人島 | 416 |
無人島 | 13,705 |
合計 | 14,121 |
「日本の島」と言ってパッと思いつくのは、主な主要四島や沖縄・種子島・屋久島等以外少数です。
世界には、他に「多数の島を持つ」国家が沢山ありますが、日本は数では7位です。
まさに「海洋国家」であるのが、日本であり、「海に囲まれた特殊な環境」が歴史をつくりました。
海覇帝国・薩摩の圧倒的潜在力:源頼朝による「島津の三ヶ国守護任命」


以前、鹿児島から船に乗って、種子島に向かいました。


種子島に向かう前に指宿で宿泊しましたが、錦江湾を見て、不思議な感覚を感じました。
「湾」は「入り組んだ海」なので、対岸がすぐそこに見えます。
そのため、「湾」は「湖に近い」印象ですが、歴然たる「海」です。
日本には様々な湾がありますが、東京湾は少し大きいので「対岸がすぐに見えない」状況です。


関東地方では、昔から水運が盛んでした。
これは江戸(東京)湾・駿河湾など、湾が沢山あることによって、海が身近であったと考えます。





我が島津は
鎌倉以来の超名門だ!
そして、当時「日本の端」であった薩摩・大隅には鎌倉時代初期から島津氏が守護となりました。





島津には、
薩摩・大隅・日向の三カ国の守護を任せよう!
それまで「公家中心の社会」を、「武家中心の社会」へと大きく変容させた源頼朝。
1185年には、頼朝が朝廷に申請して「守護・地頭」を設置しました。
守護・地頭は、各国の長官のような存在ですが、すでに「各国の長官」は「国司」が存在していました。



国司が各国の権限を
握っているのは知っている・・・



だが、国司は朝廷の権力機構の
一部であり、それを新たにしたい・・・
「社会を一新したい」頼朝にとって、「昔からの国司」は煙たい存在でした。
「昔からの各国長官」がいては、「新たな武家社会」の確立は難しいからです。


そして、「平家討滅」と同年の1185年に、



平家を潰して
一気に新たな世を!
「平氏から源氏へ」の理想像を思い描いていた頼朝は、「弟・義経との対立」を利用しました。





僕は平家を倒した
原動力だから、朝廷から官職をもらいました!



ちょっと待て!
私に無断で、朝廷から官職をもらうとは・・・



我が源氏の社会を
否定することになる!
調子に乗ってしまった、弟・義経に対して、烈火の如く怒った頼朝は、



義経との対立を
活かして、守護・地頭設置!
それまでの国司の権限を遥かに上回る、「軍事長官」として守護設置に踏み切りました。
守護:各国の軍事指揮官・行政官。地頭などを管轄し、国を治める役職。強い軍事力を持つ。
地頭:領土(荘園等)と民衆(百姓等)を管理する地域の行政官。徴税権・警察権を持つ役職。
「守護・地頭」と並び称されますが、守護の方が遥かに強力な権限を持っていました。
そして、「薩摩・大隅・日向三ヶ国の守護」となった薩摩・島津家。
一気に「三ヶ国の守護」となった理由は不明ですが、



鎌倉から遠い地であるから、
島津に、まとめて統括してもらおう・・・
おそらく頼朝はこのように考えて、島津に九州南部を統括させようと考えたのでしょう。
そして、島津家は内部分裂で一時期は勢力を弱めましたが、



我が島津は、
薩摩・大隅・日向の領土を回復する!
薩摩から九州を見ていた島津は、南の広大な海を「支配下に収める」ことも同時に進行させていました。



海も陸同様に
重要だ!



そして、我が薩摩は、
唐・天竺へ通ずる海の道を押さえる!
後に戦国期から明治期、そして現代に至るまでの「海覇帝国・薩摩」の圧倒的潜在力。
「島津の圧倒的パワー」は鎌倉時代初期に確定し、「海覇帝国・薩摩」は「日本の歴史を作った」のでした。