前回は「薩摩の海と島津家〜島津薩摩藩と日本の歴史・戦国末期に勃興した名門島津家・四カ国の守護・九州全土制覇寸前から薩摩へ逆戻り・維新でほとばしらせた猛烈なパワー〜」の話でした。
鹿児島から「すぐ近く」で馴染み深い種子島
鹿児島県の南の先端指宿を訪れた後、船で種子島に行きました。
「島国」と呼ばれる日本は、本州・北海道・四国・九州のメインの島以外に実に様々な島があります。
種子島以外では、佐渡島・屋久島・淡路島・・・などがすぐに思い浮かびます。
小学校で歴史を習うと、
1543年にポルトガル船が
種子島に漂着して・・・
我が国に鉄砲が伝来して、
戦国時代では鉄砲が一気に広がりました。
「種子島に鉄砲伝来した経緯」を教わります。
明治維新で、江戸から東京という名称に変わった、日本の現在の首都・東京・
多くの諸外国のように、憲法に明記されていませんが、「事実上の日本の首都」が東京です。
江戸時代までは、江戸が首都であっても、京都には天皇がいました。
その意味では、「江戸と京の首都二頭体制」だったかも知れません。
上の地図を見ても、種子島は「九州からすぐそこ」です。
種子島から伝来した鉄砲は、
戦国期以降「種子島」と呼ばれることがありました・・・
かつて「鉄砲」の代名詞であった種子島。
小学校の地理の授業などで、「日本の島」を取り上げることがあるかも知れません。
そして、様々な「日本の島」の一つとして「種子島を知る」機会があるかも知れません。
いずれにしても、歴史が好きな筆者は小学生の頃、
種子島という島があって、
そこから鉄砲が広がったんだ・・・
鉄砲伝来において、「我が国が欧州とつながったこと」を感じたのを記憶しています。
この意味では、筆者が「最初に知った主要四島以外の日本の島」かも知れません。
大隅諸島の一角:近くて「なかなか訪れない」種子島
このように、大抵の方は小学生の頃から知っている種子島。
種子島は鹿児島県から「すぐそこ」の位置にあり、とても近いです。
とても近いですが、「なかなか訪れない」のが現実です。
ちょっと
種子島へ行ってみよう!
筆者は、やっと訪れることができました。
小学生の頃から、織田信長がとても好きで、
岐阜城に
行ってみたいな!
岐阜城訪問を願っていましたが、なかなか訪れる機会がなく、岐阜城を訪れたのは社会人になってからでした。
小学生から歴史が好きだった筆者は、小学校5年生くらいから、歴史の学習マンガを読み耽りました。
そして、日本史のほとんどが頭に入っていたので、おそらく小学校5年生=11歳の時には、
鉄砲伝来は
種子島!
種子島のことを知っていましたが、それから30年以上が経過しました。
歴史の勉強で必ず学び、日本人にとって馴染み深い種子島。
大隅諸島の一つであり、その名称からも鹿児島から近いことが分かります。
種子島鉄砲館:鉄砲玉と早合
種子島へは、鹿児島から船で行きました。
種子島に到着したら、まずは種子島鉄砲館です。
早速、レンタカーで鉄砲館に向かいました。
エントランスすぐ脇には、実物の「戦国期の鉄砲」が置かれていて、触ったり構えたりできます。
結構な重量があって、鎧を着ながら銃を持ち運ぶのは大変そうです。
直径20mm程度の鉄砲玉が展示されていました。
鉄砲玉・弾丸は、せいぜい直径10mmですが、この大型の鉄砲玉は大筒用です。
20mmの鉄砲玉は、実物で見るとかなりの迫力があります。
戦国期において、絶大な威力を発揮した鉄砲・火縄銃。
1543年に伝来して(1542説もあります)、瞬く間に日本全国に広がりました。
この32年後の1575年には、有名な長篠の合戦があります。
数が少なく、鉄砲玉・煙硝が必要な鉄砲は、当時かなりの経費がかかった「最新の武器」でした。
「遠くから射撃できる」絶大な威力がある鉄砲の最大の問題が、「射撃の速度」でした。
そのために工夫された一つが「早合(はやごう)」でした。
木の円筒に火薬や鉄砲玉を詰めておいて、「出来るだけ早く射撃する」ことが出来ます。
最盛期の織田家の鉄砲隊は、一人当たり鉄砲一丁とこの早合をどの程度持っていたのでしょうか。
そんなことを考えながら、鉄砲や鉄砲玉・早合の展示を鑑賞しました。
様々な鉄砲が展示されている、種子島鉄砲館。
歴史好きなら、大人も子どもも楽しめる施設です。
ぜひ訪れてみて下さい。
次回は上記リンクです。