真田氏の本拠地・真田庄の真田市歴史館〜「戦国の智将」筆頭格の真田幸隆・真田「幸隆」か「幸綱」か〜|真田氏歴史館1・信濃

前回は「「最高の軍略学校」で軍略磨いた真田昌幸〜晴信近習と軍議参加・「ザ・山国」信濃で磨いた真田の調略・日本で最も平均標高が高い信濃〜」の話でした。

目次

真田氏の本拠地・真田庄の真田市歴史館

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真田氏歴史館・真田氏館跡(新歴史紀行)

信濃の真田氏発祥の地である、真田市歴史館・真田氏館後を訪問しました。

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上田城(新歴史紀行)

真田と言えば上田城ですが、上田城を訪問した後、真田発祥の地はぜひ訪れたいと思いました。

上田城に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

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真田三代:上から反時計回りに、真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信繁(幸村)(Wikipedia)

異様なまでに人気が高い真田一族は、真田幸綱(幸隆)以降に名を一気にあげました。

もともと、信濃真田庄を根拠地とし、地名を姓にした真田氏。

真田氏の由来は謎が多く諸説ありますが、戦国期の混乱の中、一時は本拠地を追われた説が有力です。

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中部・北陸地方の地図:現代(Wikipedia)

日本の地形で、山が非常に目立つのが甲信地域です。

現代でも「関東甲信地域」と呼びますが、この由来は斐と濃です。

現代、平均標高が最も高いのは長野県であり、戦国期においては「信濃が平均標高最高」でした。

そして、信濃の東の端である真田庄もまた、山に囲まれた地域でした。

真田幸綱

我が真田家は、
古来からここ、真田庄を本拠地としてきた・・・

真田幸綱

だが、戦国の混乱の中、
一時は、真田庄を脱出せざるを得なかった・・・

真田昌幸の父・幸綱(幸隆)の時代に、真田庄を追われた説が有力です。

真田庄を地盤とした真田氏は、一定の影響力を持つ土豪でした。

戦国期の石高で評価すると、おそらく数千〜一万石程度だったと思われる真田。

信濃には、小笠原・村上・海野など多数の有力大名たちがいる中、敗退を余儀なくされたと思われます。

そして、山国・真田庄を追われた真田幸綱は、

真田幸綱

やむを得ん・・・
長野殿を頼ろう・・・

同じく山国の上州を拠点とした長野氏を頼った説があります。

「戦国の智将」筆頭格の真田幸隆:真田「幸隆」か「幸綱」か

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真田氏歴史館・真田氏館跡(新歴史紀行)

真田歴史館に入ると「乱世の智将 真田幸隆」と記載された木版に迎えられました。

そもそも、名前に諸説がある真田幸綱(幸隆)。

筆者が高校生の頃までは真田「幸隆」でしたが、最近は真田「幸綱」が一般的です。

名前を変えることが多かった戦国時代。

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戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

もともと、長尾景虎という名前であり、上杉家を継承した上杉謙信。

上杉謙信は、姓が上杉となった後、上杉政虎→上杉輝虎→上杉謙信と度々名前を変えました。

これらの名前の変更には、

上杉謙信

上杉家を継いだときに、
上杉憲政様から、「政」の字を頂き・・・

上杉謙信

その後、将軍である足利義輝様から、
「輝」の字を偏諱頂いた・・・

それぞれに、「大事な名前の変更の理由」がありました。

それに対して、真田幸綱は、「当初、幸綱から幸隆に変更した」説が有力です。

筆者としては、真田「幸隆」の名前に馴染みがあり、こちらの名前の方がイメージが合う様に思います。

真田氏歴史館に関する話では、真田「幸隆」で通したいと思います。

まさに「乱世の智将」というイメージがピッタリであるのが、真田幸隆・真田昌幸の親子です。

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真田氏歴史館・真田氏館跡(新歴史紀行)

真田氏歴史館付近は、もともとは真田氏館跡であり「御屋敷公園」として整備されています。

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真田氏歴史館・真田氏館跡(新歴史紀行)

真田氏歴史館からすぐ近くのエリアは、鬱蒼とした森となっており、ここが真田氏館跡です。

上の写真右手にこんもりと盛り上がっているのは、土塁の跡と思われます。

「いかにも真田」という雰囲気の真田庄・真田氏館跡。

次回は、周辺を散歩してみた話です。

次回は上記リンクです。

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