四国の覇王・長宗我部元親の力の根源・岡豊城〜一領具足の猛烈パワー・ささやかな規模の石垣・長宗我部氏の「象徴」〜|岡豊城跡5・土佐の輝き

前回は「比較的低い山に築城された岡豊城〜中央部から飛躍した長宗我部・山国であり海国であった土佐〜」の話でした。

目次

ささやかな規模の石垣:長宗我部氏の「象徴」

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岡豊城跡(新歴史紀行)

現在では、城跡となっている岡豊城を訪問しました。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

往時に建築されていた、様々な城や曲輪、櫓などの基礎の石や石垣の一部が残っています。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

土塁や石積の一部も残っていますが、ほとんど森となっているのが、岡豊城跡です。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

石垣が残されており、長宗我部時代のものと思われます。

石垣の積み方は、城郭建築の中でも「ささやかな規模」であり、比較的小さな石が目立ちます。

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上田城(新歴史紀行)

上田城などの本格的な石垣と比較すると、その規模の小ささがよく分かります。

上田城を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

この石段は、整備された感じがあります。

新たに作ったか、または往時の石段に手を入れたと考えられます。

いずれにしても、標高100mほどの低い山に建築した山城である岡豊城。

岡豊城は、城としての規模は小さいです。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

本丸があった付近を歩いて、登ってきた側の反対側の方にゆくと、階段で降りてゆけます。

この階段もまた、訪問者のために整備した感じがあります。

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安土城址(新歴史紀行)

戦国の覇王・織田信長の安土城趾と比較しても始まりませんが、安土城よりもかなり小規模な岡豊城。

果たして、この城が「籠城戦などの戦闘のために作られたのか」かも不明です。

籠城するには、あまりにもその防御の痕跡が脆弱であるように感じます。

筆者の個人的な感想ですが、武田家の躑躅ヶ崎館のような存在であったと思いました。

つまり、「防御のため」ではなく「長宗我部氏の政治機構・象徴」が岡豊城であったのでしょう。

四国の覇王・長宗我部元親の力の根源・岡豊城:一領具足の猛烈パワー

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岡豊城跡(新歴史紀行)

「長宗我部氏岡豊城址」と描かれた大きな石碑がありました。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

この石碑は、幕末維新の土佐藩出身であった名士・田中光顕による揮毫です。

土佐藩は山内家であり、土佐山内家の家老に連なる家柄に生まれた田中。

この点では、「長宗我部とは無関係」であるはずの田中ですが、やはり「土佐は長宗我部」なのでしょう。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

比較的大きな石による石垣もありますが、実に全体的に「ささやかな」印象です。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

他には、上の写真のように、石垣の一部の痕跡もありますが、小さい規模です。

現在は、城跡というより廃墟となっている岡豊城。

もはや朽ちているような城ですが、戦国期には、確かにここ岡豊城から勃興したのが長宗我部元親でした。

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岡豊城跡(新歴史紀行)
長宗我部元親

我が長宗我部が
四国を統一するのだ!

若い頃は「姫若子(ひめわこ)」と言われたほど、「戦国武将らしくなかった」元親。

その元親の親である、国親の代に長宗我部氏は飛躍しました。

とは言っても、土佐の中央部で勢力を伸ばした程度であり、脆弱な勢力であった長宗我部氏。

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戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

土佐一国で「太閤検地の時点で10万石満たなかった」数少ない小国・土佐。

国名石高
伊予36万6200石
阿波18万3500石
讃岐12万6200石
土佐9万8200石
合計77万4100石
太閤検地における四国の石高

四国全土で約80万石ほどであり、国土は広いのに、その12%程度の生産力でした。

おそらく、長宗我部元親が相続した時点で、長宗我部氏は3万石程度であったと思われます。

後に各地で覇を唱えた諸大名の中でも、「際立って石高が小さかった」長宗我部元親の領土。

長宗我部元親

我が長宗我部領では、
米の生産力が低い・・・

長宗我部元親

だが、土佐湾では、
捕鯨など漁業が盛んである!

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京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

太平洋に思い切り開いた土佐は、旧国名の中でも「最も海に開いた」国家でした。

おそらく、米の生産量が低かったものの、魚類を主食にしていた可能性が高い土佐の人々。

土佐では、農民と漁民によって国家が成立していたと思われます。

そして、長宗我部元親独自の「一領具足」の軍団が四国を席巻しました。

長宗我部元親

「一領具足」の
武装農民たちよ!

長宗我部元親

この元親に
続くのだ!

一領具足は、「半農半兵の兵士」と説明されますが、筆者は「半漁半兵の兵士」も多数いたと考えます。

そうでなければ、この異様に生産力が低い土佐から四国を制圧するパワーの説明が出来ません。

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岡豊城跡(新歴史紀行)

そして、四国で「最も小国であった」土佐の長宗我部元親が、四国を席巻し、

長宗我部元親

もうすぐで
四国を統一だ!

四国統一目前となりました。

そして、四国80万石を元に、「農民パワー+漁民パワー」で中央に名乗りを挙げようとしていた元親。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

長宗我部に
土佐全土はやれん!

そこに登場したのが、戦国の覇王・織田信長でした。

長宗我部元親

信長め・・・
だが、信長は本能寺で消えた・・・

そして、本能寺の変で一息ついた長宗我部。

ところが、「中央に近かった」ために、豊臣軍の猛攻を最初に受けてしまった長宗我部軍。

長宗我部元親

我が四国制覇の
夢が・・・

長宗我部元親の「四国制覇の夢」は、ここでピリオドが打たれました。

ここ岡豊城跡を訪れた時、その「元親の夢」が少し垣間見えた気がしました。

高知中央部にある岡豊城跡を、ぜひ訪問してみてください。

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