前回は「「国家を治す医師」を自認した村田蔵六〜最先端学問の入り口蘭語・西洋兵学導入に大きく舵切った徳川幕府・アヘン戦争の巨大衝撃〜」の話でした。

自由闊達な「適塾=緒方塾」の雰囲気:塾頭の存在と松下村塾との違い

多数の優れた人物を輩出した適塾。
適塾は「塾」という名称がついている通り、緒方洪庵の私塾であり「緒方塾」でした。

緒方洪庵医学を志す方も
他の学問を志す方も・・・



優秀な人物であり、
一生懸命学ぶ覚悟があれば・・・



蘭学を学びたいなら
適塾へお越しください。
適塾は「緒方塾」であると同時に、非常に門戸が広く、「蘭学解読研究所」でもありました。
そして、適塾の大きな特徴は、優れた塾生を塾頭に指名したことです。
「緒方塾」である以上、塾頭=塾長は緒方洪庵であり、「塾生の塾頭」は本来は「副塾長」に当たります。
「副塾長」にあたる「塾生の塾頭」を任命した緒方洪庵は、



私は医師としての
業務も忙しい・・・



「塾生の塾頭」に
適塾の運営をある程度任せたい・・・
このように考えたと思われ、「適塾の運営の円滑化」が大きな理由だったと思われます。





この福澤諭吉も
適塾の塾頭になったぞ!
後に大村益次郎となる村田蔵六と、福澤諭吉は性格が全く異なります。
このように「多種多様な優れた人材が多数集まった」場であったのが、適塾最大の魅力の一つでした。





実行することこそ、
大事なのだ!
「学生の塾頭」は設置せず、とにかく「吉田松陰が頂点だった」松下村塾とは大きく異なった適塾。
いわば「吉田松陰塾」だった松下村塾では、超過激な発想だった吉田松陰の信念が滲み出た教育がなされました。
適塾と松下村塾は塾の目的が全く違い、雰囲気もまた全く違いました。
挨拶すらしなかった村田蔵六:超不人気だった村田医院


そして、後に明治新政府の兵部大輔に就任し、靖国神社の中央に立つ銅像となった村田蔵六。



適塾では
大いに学んだ!



蘭学の書籍が
ほぼ完全に読めるようになり・・・



医学も学んだが、
兵学などの書籍も多数読んだのだ・・・
1825年生まれの村田は、1850年まで適塾で学問に打ち込み、塾頭となった上で帰郷しました。
ちょうど、現代の大学院の年齢に適塾で極めて優秀な成績であった村田。
本来ならば、ここで村田は故郷の長州藩から「招聘される」べき立場でした。
ところが、村医の立場でしかなかった村田は、特に大坂にいる理由もなかったため、



とりあえず、
郷里に帰ろうか・・・
村田は郷里の長州藩周防国鋳銭司村に戻り、家業を継ぎました。
この頃、結婚した村田はひょっとしたら、「このまま村医で終わる」かもしれない状況でした。



村田先生、
ちょっと体調が悪くて・・・



・・・・・



なんだか、ブスッとしていて、
ちょっと嫌だわ・・・



挨拶くらい
すれば良いのに・・・



この薬を
飲むと良いでしょう。
診察の際には、患者の状況を尋ねるのが基本です。
ところが、頭脳明晰であり「超無愛想」だった村田は、



患者に尋ねる
必要はない・・・



患者の身体を診察すれば
全て分かるのだ・・・



無用な会話は
時間の無駄だ・・・
村田にとって、挨拶などは「時間の無駄」以外の何ものでもありませんでした。



もう村田先生には
診て欲しくないな・・・
こんな態度で、患者の評判が良いわけがありませんでした。
あるいは、夏の暑い盛りに、村田が道中で村民に会った際、



村田先生、
今日は暑いですね・・・



夏は暑いのが
当たり前です!



・・・・・



何、
この人?
普通ならば「暑いですね」と会話が続くのが挨拶の基本ですが、村田からすれば、



当たり前のことを
言うことに何の価値がある?
このような発想であり、合理的発想を超えて、「鋼の如き超合理的発想」でした。
このような状況で医院の運営が上手く続くはずがなく、村田医院は超人気が低い医院となりました。



なぜ、
なぜだ?



私は超優秀な医師で
あるのに・・・



なぜ、みんな私の
医院に来ないで、他に行く?
閑古鳥が鳴く村田医院で、大村は本来不必要であった大いなる挫折感を感じたでしょう。



あの適塾での懸命な
学問は何だったのか・・・



こ、こんな
はずでは・・・
2年ほど、「超不人気」であった村田医院の院長を務めた村田。
もし、村田が「普通の神経」を持っていたら、村田医院は大繁盛だったでしょう。
そして、時代が大きく変化する中、「不人気だった」村田蔵六。
村田は、別の世界で必要とされることになります。
この点では、村田医院が「超不人気」であったことは、結果的に村田にとって瑞兆となりました。
次回は上記リンクです。


