前回は「挨拶すらしなかった村田蔵六〜超不人気だった村田医院・自由闊達な「適塾=緒方塾」の雰囲気・塾頭の存在と松下村塾との違い〜」の話でした。

初めての挫折と雌伏:出身ではない大坂に適塾を設立した緒方洪庵

大坂(当時は大阪を大坂と表記)の適塾で学んで、塾頭にまでなった村田蔵六。
もともとは、長州藩周防国鋳銭司村出身の村医の家柄だった村田にとって、大坂は大都会でした。

村田が適塾で学んでいた1850年頃は、徳川幕府が誕生して250年ほど経過していました。
そのため、江戸中心の日本の国家像となっていましたが、「天下の台所」大坂は当時も大都市でした。

もともと備中出身であった緒方洪庵は、父が大坂において藩の留守居役となり、一時期大坂にいました。
緒方洪庵我が私塾を
つくりたい・・・
まだ20代だった若き緒方洪庵は、長崎などで蘭学を学び、私塾を設立する決意をしました。
「普通の発想」であれば、地元=出身藩の領内において私塾を設立します。
現代も当時も、私塾を設立するのは相応の資金が必要であり、地元ならば応援も期待できます。



大坂の雰囲気が
好きだから・・・



大坂で
適塾を開こう・・・
ところが、緒方洪庵は地元・備中ではなく、大坂で適塾を開きました。
この「大坂で適塾設立」は、緒方洪庵の慧眼でした。
そして、適塾には「大坂的な盛り上がり」があり、各国から優等生が集まりました。
適塾を卒業して、地元鋳銭司村に戻り、村田医院を開設した村田でしたが、



なぜ、
なぜだ?



なぜ、みんな私の
医院に来ないで、他に行く?
あまりにぶっきらぼうで、態度が悪い村田主催の「村田医院」は悪評が高い状況となりました。



ぶっきらぼうすぎて、
嫌だな・・・



もう村田先生には
診て欲しくないな・・・
そして、村田の元から村の人々の足が遠のき、全く繁盛しませんでした。



・・・・・
小さい頃から、超優等生だったと思われる村田蔵六の「初めての挫折」でした。



仕方ない・・・
蘭学書でも読んでいよう・・・
おそらく、暇だった村田は蘭学書、特に兵学書を読んで雌伏していたのでしょう。
武士に出世した村田蔵六:百石「御雇」の武士へ





西洋の学問は
極めて進んでいるらしい・・・



我が宇和島藩でも、
蘭学による軍事力強化をしたいが・・・



様々な蘭書を
購入したが・・・



蘭学を読める人物が
少ない・・・
伊予宇和島藩主だった伊達宗城は、優れた蘭学者を求めていました。


初代宇和島藩主・伊達秀宗は、伊達政宗の庶子で本来は世子でした。
ところが、秀宗の名の通り、秀吉とのつながりが強かった秀宗。
そのため、「仙台藩とは別」として生まれたのが、伊達宇和島藩でした。
こうした歴史もあり、伊達宇和島藩は、進取の気持ちが強かったのでしょう。



なに?
長州に極めて優れた蘭学者がいると?
暇で暇で仕方ない「村田医院」の村田が、超優秀な蘭学者であることを風の便りで知った伊達宗城。


毛利長州藩と伊達宇和島藩は、藩の歴史から考えて、それほど親しい関係ではありませんでした。
その一方で、周防と伊予は「瀬戸内海を隔てた隣国」でした。
当時は、水運が現代よりも遥かに重要であり、瀬戸内海には多数の船が行き来していました。
さらに、関所があった当時、陸上よりも海上の方が通行の自由度が高かったと思われます。
そのため、周防と伊予は「隣国以上のつながり」があったのでしょう。



ふむ・・・
あの適塾で塾頭になったか・・・



性格は、ちょっと変わっていて、
ぶっきらぼう、だと・・・



まあ良い・・・
とにかく、その村田を招聘せよ!
こうして、宇和島藩主直々のご指名で、村田は宇和島藩に迎えられました。



村田で
ございます・・・



ああ、村田殿、
よく来てくれた!



我が藩は蘭学を
推進したいのだ!



あなたに蘭学を中心とする
兵学顧問になって頂きたい!



分かりました。
一生懸命やりましょう。
こうして、宇和島藩兵学顧問として、「御雇」として百石で迎えられた村田。
村医だった村田は、「御雇」というやや中途半端ながら、武士になりました。
さらに、百石は、かなりの高い給与であり「破格の待遇」でした。
1853年、村田が30歳になる年でした。


そして、この年にペリーが浦賀に来航しました。
村田蔵六を取り巻く時代が、急速に転回し始めました。

