時代の趨勢を見抜いた村田蔵六〜西洋兵学の重要性認識と大傾倒・適塾卒業生の俊英長与専斎・「蘭学解読研究所」だった適塾〜|大村益次郎4・人物像・エピソード

前回は「適塾で西洋兵学に出会った村田蔵六〜緒方洪庵と適塾出身の俊英たち・「蘭学の権化」の若い頃・梅田塾と咸宜園から適塾へ〜」の話でした。

新歴史紀行
陸軍大輔 大村益次郎(村田 蔵六)(国立国会図書館)
目次

適塾卒業生の俊英・長与専斎:「蘭学解読研究所」だった適塾

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大阪(大坂)城(新歴史紀行)

長州藩の周防国の医師の家に生まれた村田蔵六は、若い頃から勉学に励みました。

村田蔵六

私は勉強するのが好きで、
蘭学は大好きだ・・・

名前生年所属
大村 益次郎(村田 蔵六)1825長州
西郷 隆盛1827薩摩
武市 瑞山1829土佐
大久保 利通1830薩摩
木戸 孝允1833長州
江藤 新平1834佐賀
坂本 龍馬1835土佐
中岡 慎太郎1838土佐
高杉 晋作1839長州
久坂 玄瑞1840長州
幕末維新の志士たちの生年

後に討幕勢力の軍事指揮官となり、「討幕中核中の中核の人物」となる大村。

若い頃は村田蔵六と名前であり、討幕の志士たちの中では最年長の一人でした。

地元長州や九州で蘭学や儒学を学んだ村田は、遂に「蘭学のメッカ」の一つであった適塾に入門しました。

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長与専斎 衛生局長(Wikipedia)

後に内務省衛生局長となる長与専斎もまた、適塾卒業生でした。

かつての大日本帝国に存在した内務省は、最強官庁であり「官庁の中の官庁」と呼ばれる巨大組織でした。

総務省・国交省・厚労省・警視庁の組織を持っていた超巨大組織だった内務省。

内務省の衛生局長は、現在の財務省を除く省庁の次官に相当すると考えます。

長与専斎は「松香私志」を著し、適塾に関しても多数の記載があります。

長与専斎

元来適塾は医学の塾とはいへ、
其実蘭書解読の研究所にて・・・

長与専斎

諸生には医師に限らず、兵学家もあり、
砲術家もあり、本草家も舎密家も・・・

長与専斎

凡そ当時蘭学を志す程の人は
皆此塾に入りて其支度をなすことにて、

長与専斎

余が如きは読書解読の事をこそ、
修めたれ・・・

このように適塾に関して長与は述べており、適塾が「蘭学解読研究所」であったことを指摘しています。

時代の趨勢を見抜いた村田蔵六:西洋兵学の重要性認識と大傾倒

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医師・教育者 緒方洪庵(Wikipedia)

医師であり、教育者であった緒方洪庵の適塾には、膨大な蘭学書がありました。

ネットがある現代と全く異なり、蘭学を学ぶには「まずは蘭学書」でありました。

そして、高額であった蘭学を多数有した適塾には、様々な支援もあり経済力もありました。

緒方洪庵

医学を志す方も
他の学問を志す方も・・・

緒方洪庵

優秀な人物であり、
一生懸命学ぶ覚悟があれば・・・

緒方洪庵

蘭学を学びたいなら
適塾へお越しください。

このように緒方洪庵は「医師を目指す人物」と言うよりも、「蘭学を懸命に学ぶ人物」を求めていました。

1846年に適塾に入門し、メキメキ学力を増強させた村田は、

村田蔵六

最先端の蘭学の医学を
学ぼう!

蘭学において第一人者となり、1849年に適塾塾頭になりました。

おそらく、最初は全国から集まる超優等生たちの中で切磋琢磨していた村田。

村田蔵六

蘭学は医学以外にも
窮理(物理)や舎密(化学)も素晴らしい・・・

塾頭になる頃には、ある程度の余裕と裁量権を持てるようになり、様々な書物を読み始めました。

村田蔵六

これは軍制に関する話で、
これは砲術の話か・・・

村田蔵六

これは軍艦に関する書籍で、
西洋の軍艦はこのようになっているのか・・・

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米提督 Matthew Calbraith Perry(Wikipedia)

大村が適塾塾頭に就任した1849年は、ペリー来航の1853年の4年前でした。

そして、幕府の制度により、佐賀藩・薩摩藩など以外は「軍艦など夢のまた夢」でした。

村田蔵六

この書籍をしっかり理解すれば、
小さな軍艦が作れるかもしれない・・・

村田蔵六

そして、大砲などの武器も
作ることが出来るかもな・・・

軍艦や大砲などの最新鋭の武器が図解され、事細かに記載されている書籍を読んだ村田。

数理的思考力に秀でていた村田は、これらの「機構」に瞠目しました。

さらに村田が驚いたのは、軍制・戦略・戦術に関する書籍でした。

村田蔵六

西洋では、軍事をこのように
軍制でまとめて・・・

村田蔵六

その上で、戦略や戦術を
整理して、戦闘するのとか・・・

村田蔵六

我が国では藩士や武士が大きな顔を
しているが・・・

村田蔵六

こういう発想は、あの連中(藩士)には
全くないな・・・

もともと傲岸不遜な性格であった村田。

村田は適塾で蘭学の実力をアップさせて自信を深め、傲岸さも大いに高まりました。

適塾塾生A

俺は、適塾で
兵学を学ぼう!

このように医学ではなく、もともと兵学を志して適塾に入門する人物もいました。

そうした人物と比べ、「そもそも医学志望」であった村田。

適塾塾頭となった頃に、

村田蔵六

私は医学よりも、
こっち(兵学)の方が合うかもな・・・

急速に西洋兵学に傾倒し始めて、多数の兵学書に没頭するようになりました。

村田蔵六

これからの時代、最も
求められるのは医学よりも兵学ではないか・・・

ペリー来航前から、ロシアはじめとして、様々な国が接触していた幕末の時代。

村田蔵六

西洋兵学こそ、
最も大事だ!

このように考えた村田は、ますます西洋兵学にのめり込みました。

そして、村田は「西洋兵学の第一人者」目指し、大いに学問を続けたのでした。

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