前回は「「戦国の最後」を飾るのに相応しいただ一つの城・小田原城〜北条帝国の力の源泉・北条の圧倒的諜報力支えた風魔軍団〜」の話でした。
北条家から徳川家へ:結束固い「北条帝国」を統治した家康

小田原城内に入って、広大な城の中を歩いてゆくと、天守前で風魔の劇が行われていました。
戦国時代に、「影の存在」として、各大名を支えた忍者たち。
忍者というと、「忍者ハットリくん」みたいにピョンピョン飛び回る存在もいましたが、

私の役割は、
敵地の街に溶け込んで・・・



城の動きや人事などの
情報を集めて、上様に報告することだ。
戦国時代に限らず、どの時代においても「敵に関する情報」は最重要事項です。
そして、忍者たちの中には、このように「地味な存在」ながら「極めて重要な存在」も多数いました。
「やや地味な戦国大名」ながら、知名度抜群の忍者軍団・風魔を支配下に抱えていた北条家。
「風魔の存在」は、そのまま「北条家が別格の大大名であった」事実を示しています。


そして、いよいよ小田原城の天守内部に入ってゆきます。
この日は桜満開の直前の頃で、大勢の人で賑わっており、天守前で20分以上並びました。


並んで待っている間に、天守を仰ぎ見ると、屋根の反りが美しく復元されているのが分かります。


天守内部では、現在の小田原城の模型があります。
小田原城に入るときに門を潜ったのが、内堀で、外側に外堀があった構成だったと思われます。
北条家滅亡後、短い豊臣家の時代となり、徳川家康が北条領をそのまま統治しました。





徳川殿への恩賞として、
北条領を差し上げましょう!



私は、先祖代々の三河や、
駿府が気に入っているのですが・・・



とにかく100万石アップ
なので、徳川家は北条領へ行くのだ!



おのれ・・・
我が徳川を端に追いやるつもりか・・・
秀吉としては、中央に近い駿遠三甲信に大領土を持つ徳川が煙たかったのであり、



北条領の結束が固いので、
分割統治は困難だ・・・



家康ならば、上手く
統治出来るだろう・・・
秀吉ならではの「深謀遠慮」によって、北条領は徳川家となりました。
「陸と海の番人」だった小田原城:天然の外濠だった相模湾


関東に入った家康は、初代の小田原城主を重臣・大久保忠世とし、徳川家を固めました。
その後、江戸時代を迎えました。


「北条帝国」の首都であった小田原は、小田原藩として存続しました。
そして、海に面していた小田原藩は、「東海道と海の要」として圧倒的な存在感を発揮し続けました。
江戸時代には、多数の関所がありましたが、小田原藩は6箇所の重要な関所がある重要な藩でした。


上の模型は、江戸期・小田原城であり、「北条家の小田原城」は上の城絵図です。
天守の北側に大きく広がり、最も東から北に向かって、最後は西へ半円状に広大な外堀がありました。
そして、南側は広大、というよりも無限の海に広がっていた小田原城。





我が小田原城の
南の堀は相模湾よ!



海が「天然の堀」と
なっているのだ!
戦国期には、水軍を持つ大名は限られた存在であり、毛利家が有名です。
信長ですら、毛利水軍には悩まされ、一度は大敗を喫したことがあります。
駿河では武田水軍が、相模では北条水軍がいましたが、毛利と比較すると「ささやかな存在」でした。
そして、「天然の堀」であった南からは、豊臣家が1590年に襲来した際に、



堀であるはずの相模湾に、
豊臣の大水軍が来襲、だと?
堀となって外敵を防ぐはずの「相模湾堀」は、豊臣水軍によって完全封鎖されてしまいました。



まさか・・・
相模湾全体を防ぐとは・・・
この発想は「北条家には全くなかった」のであり、「驚愕の事態」でした。


天守最上階には、摩利支天像が祀られています。
重厚で崇高な雰囲気の中、小田原城を護り続けた摩利支天の存在は、天守の風格を際立たせます。


すぐ近くには、箱根などの山々が連なっています。
上の写真は、天守から北の方角で、北条家の頃は「小田原城内」だったエリアです。


南側には、広大な相模湾が広がり、山と海が美しい小田原城。
戦国時代の名城には、様々な城がありますが、「山と海が美しい城」は数少ないです。
「風光明媚を極めた」ような場所にあった、戦国最大の巨大な平城・小田原城。
この天守は、北条家の頃は、もう少し高さ・規模が小さかったと考えます。
戦国期とは少々異なる高さと思われますが、この天守に立つと、ある感慨を感じることが出来ます。


小田原城を拠点とした「北条帝国」を築いた、北条代々の当主の「関東の覇王の強き思い」を。