前回は「大田実司令官の悲壮な決意が感じられる旧海軍司令部壕〜陸上と海上の「一億総特攻の魁」・海兵同期の太田実と草鹿龍之介〜」の話でした。
「内地の最初の砦」沖縄:戦艦大和の沖縄突入と撃沈

沖縄の那覇空港から車で10分ほどの位置にある、旧海軍司令部壕を訪問しました。
大日本帝国が連合軍、特に米国軍に押され続けていた1945年3月26日から開始した沖縄戦。
もはや、誰が見ても「大日本帝国の敗北」は確定していました。


とにかく、米軍に
痛恨の打撃を与えるのだ!



帝国陸軍は、我が国を
必ず守り抜いてみせる!
帝国陸軍のボスであった梅津美治郎参謀総長は、徹底抗戦を叫んでいました。



我が海軍は総力を
結集して、沖縄戦へ挑む!
大人しめで、内心は「必ずしも徹底抗戦ではなかった」と思われる及川古志郎軍令部総長。
学者肌で、漢籍にかけては「陸海軍随一」の評判が高い及川。
一方で、軍人としての素質には不足があったと思われ、梅津と比較すると迫力不足でした。



戦艦大和を
沖縄に突入させる!


そして、「内地の最初の砦」である沖縄に、「帝国海軍の顔」であった戦艦大和を突入させました。
すでに「空母がない」帝国海軍の海軍力は「ほぼ戦力ゼロ」であり、「本当に最後の最後」の戦いでした。





戦艦大和の沖縄突入は
無茶だ・・・
対米戦開戦時には、第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介は、沖縄戦の頃は連合艦隊参謀長でした。
真珠湾奇襲攻撃の際の、草鹿参謀長の話を上記リンクでご紹介しています。
優秀かどうか、ではなく「正常な頭脳」を持っていれば、戦艦大和の沖縄突入は「不可能」でした。



無茶だが、
やるしかない・・・
しかし、神風特別攻撃隊の猛攻と玉砕が続く中、帝国海軍としては「やらざるを得ない」状況でした。


そして、1945年4月7日、戦艦大和は米海軍の航空隊の猛攻を受けて撃沈されました。
陸戦の大家・大田実司令官の渾身の指揮と沖縄戦





我が帝国陸海軍が
一丸となって、戦い抜く!
そして、沖縄戦の海軍のトップ(先任)だったのが大田実 沖縄根拠地隊司令官でした。
海兵41期卒の大田は、草鹿参謀長とは同期でした。
名前 | 役職 | 専門 |
大田 実 | 沖縄根拠地隊司令官 | 陸戦 |
草鹿 龍之介 | 連合艦隊参謀長 | 航空 |
松永 貞市 | 第十航空艦隊司令 | 航空 |
木村 昌福 | 海軍兵学校防府分校長 | 水雷 |
田中 頼三 | 第十三根拠地隊(ビルマ)司令官 | 水雷 |
この頃になると、「砲術中心」の大艦巨砲主義からの移行が明確になっていました。
航空や水雷の専門が多い海兵41期において、大田実は当初から「陸戦の専門家」でした。
上海事変から日中戦争にかけて、陸戦隊の司令官として多方面で陸戦を指揮した大田。



帝国海軍では、
陸戦は私がトップだ!
陸戦の専門家であり、帝国海軍の中では「海兵隊指揮官」のような特殊な立場にいました。



沖縄戦では、
海軍は特攻隊か陸での戦いになる・・・



特攻隊は、五航艦(ごこうかん、第五航空艦隊)の
宇垣長官が指揮する・・・



沖縄の陸戦指揮は、
太田しかいない!



大田、
なんとか頼むぞ!



沖縄を死地と決めて、
踏ん張って見せよう!
海兵同期の草鹿参謀長から「沖縄死守」を頼まれたと思われる大田司令官。


その大田司令官たちが、最後に立てこもったのが、旧海軍司令部壕です。


幕僚たちが、作戦指揮をしていた部屋は、当時のままです。
コンクリートを固めて、その内部を漆喰で仕上げた作りです。


幕僚室に来ました。



なんとか、
ここ沖縄で米軍を食い止めなければ・・・
帝国海軍の中でも優れた人物たちが集められ、幕僚として指揮をしていました。
「なんとか沖縄で米軍を食い止める」ことを使命としていた彼らでしたが、



地下壕に立てこもって、
時々出撃して米軍を叩く以外にない・・・
武器弾薬や食料が不足していた帝国陸海軍において、「物量が唸るほどある」米国との戦いは、



米軍は無数の砲弾を
打ち込んでくる・・・



ガガ〜ン!
ガガ〜ン!
幕僚たちが作戦を練っている間にも、米軍は多数の砲撃をしてきました。



ズド〜ン!
ズド〜ン!



な、なんだ、
地震か?
時には「地震のような巨大な揺れ」があり、それは米戦艦の砲撃でした。



戦艦の
砲撃か・・・
しかし、帝国海軍には、もはや戦艦はほとんどなく、あっても原油が不足している状況でした。



もはや、
どうにも、どうにもならん・・・
「どうにもならない」状況の中、幕僚たちは必死に耐え続けて、指揮をしました。
そして、最後に幕僚たちは敗北を確信した後に、



手榴弾で
自決しよう・・・
「自ら手榴弾を握って自決した」と言われています。


その幕僚たちの「自決の際の手榴弾の痕跡」が明確に残っています。



皆、大変よく
頑張ってくれた・・・
そして、大田司令官も自決しました。
次回も、続けて旧海軍司令部壕を歩みます。